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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

7.須恵器の歴史

古墳の副葬品として

墓前に捧げる儀式の器

 須恵器の源流は、朝鮮半島にあります。日本では5世紀ころ、渡来人によって初めて作られました。希少な品であり、もっぱら古墳に供える儀式用の器として用いられています。須恵器を手にすることは、有力者たちの特権でした。

さきたま古墳群航空写真(県立さきたま資料館提供)
さきたま古墳群航空写真
稲荷山古墳出土須恵器|写真
稲荷山古墳出土須恵器(川鍋重寿氏・県立さきたま資料館蔵)
さきたま古墳の須恵器
9基の大型古墳が集まる東日本有数の古墳群。そのひとつ、稲荷山古墳の須恵器は、同じく出土した鉄剣の剣に刻まれた「辛亥年」の実年代を決定する上での重要な手がかりとなりました。
古墳時代の須恵器(東落合遺跡出土)
古墳時代の須恵器|写真
この遺跡では、古墳ではなく住居跡から大量の須恵器が出土しています。

役人の食器として

お役所御用達し

 7世紀の後半以降、律令を基礎とした古代国家の形成が進められました。国土は現在の県に相当する国に分けられ、さらに国は郡に分けられて、それぞれに役所が置かれ、大勢の役人たちが執務に当たりました。須恵器は役所で一律に使う器として大量に必要となりました。需要は一気に全国へ広まりました。生産工場である窯も各地に登場します。

復元された平城京朱雀門(すざくもん)
復元された平城京朱雀門|写真
平城京跡出土須恵器|写真
平城京跡出土須恵器(奈良文化財研究所提供)
平城京の須恵器
奈良時代の首都平城京では、大勢の貴族や役人が住い、政治を執り行っていました。都の跡を発掘調査すると、大量の遺物が出土します。
奈良時代前半の須恵器(鳩山窯跡群、柳原B1号窯跡出土、鳩山町教育委員会提供)
奈良時代前半の須恵器|写真
西暦700年代前半の資料です。鳩山窯跡群では同じ時期の窯跡が10数基調査されており、官需を充たすためこの段階から量産体制が敷かれはじめたことがわかります。
奈良時代初頭の須恵器(山下6号窯跡出土、鳩山町教育委員会蔵)
奈良時代初頭の須恵器|写真 西暦700年代初頭の基準資料です。

国分寺の瓦として

荘厳な伽藍が戴く青瓦

 奈良時代、聖武天皇の天平年間(729〜749)に仏法によって国家の安定を図る政策が打ち出され、各国に国分寺と国分尼寺が建設されました。寺院の屋根はみな須恵器と同じ方法で焼かれた瓦で葺かれました。伽藍全体では数万枚もの瓦が必要でした。生産体制の整備が官主導で押し進められることとなります。

東大寺大仏殿
東大寺大仏殿|写真
東大寺出土軒瓦|写真
東大寺出土軒瓦(東大寺蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供)
東大寺の瓦
全国に建立された国分寺の頂点に位置する総国分寺とされたのが東大寺です。和歌に詠まれる「青丹よし奈良の都」の青は瓦の色、丹は堂の柱が塗られた赤い色を指しています。
鉄鉢形須恵器(芳沼入遺跡33号住居跡出土、県立埋蔵文化財センター蔵)
鉄鉢形須恵器|写真 本来僧侶が托鉢に使用するものですが、仏前に供えたり、自らの食器として使ったりしました。材質と大きさに種類があり、僧侶の階層により使うものに違いがあったようです。
奈良時代の須恵器(天裏遺跡24号住居跡出土、滑川町教育委員会蔵)
奈良時代の須恵器|写真
坏、碗、蓋など食器を中心とし、貯蔵用の須恵器は出土していません。

日常の雑器として

庶民の食卓へ

 国分寺の造営が一段落したあとには、あまたの窯と工人、工場労働者たちが残されました。工場はその存続を賭けて、民間へも販路を拡げ活路を見い出します。関東地方では、8世紀の半ばから9世紀の半ばまでのおよそ100年間、日常雑器としての須恵器が最も大量に生産されました。この時代の住居跡を発掘調査すると、数多くの須恵器が出土します。製品は広く一般庶民にも流通していたことがわかります。
 工場が官のお抱えであったときは、製品の品質も厳しく管理されたようです。そのタガがはずれ、やがて関東では焼きのあまい、白茶けた焼きものに変わり、終焉を迎えます。

続日本後紀(しょくにほんこうき)(国立公文書館提供)
続日本後紀|写真
平安時代になると地方では富豪層と呼ばれる在地の豪族が次第に力を伸ばしていきます。男衾郡の前大領壬生吉志福正は、中央の記録に残る代表的な富豪層で、独力で焼失した武蔵国分寺の七重塔再建を願い出て、これを許され、息子二人の一生分の税金をすべて納めるなど巨大な富を蓄積し強力な力を持っていたことが知られています。
寺内廃寺出土須恵器(熊谷市教育委員会提供)
寺内廃寺出土須恵器|写真
平安時代の須恵器(金平遺跡出土)
平安時代の須恵器|写真
緑釉陶器(上、小代氏館跡出土、東松山市教育委員会蔵)と灰釉(かいゆう)陶器(下、篩新田遺跡出土、ときがわ町教育委員会蔵)
緑釉陶器|写真 平安時代になると、東海地方などから釉薬をかけた陶器も流通し、関東では徐々に須恵器が姿を消していきました。
灰釉陶器|写真