嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.鉄の道具
ムラの鍛冶屋
弥生時代に鉄器がもたらされて以来、つい最近に至るまで、鉄は農耕具や武器など、様々な分野で大きな役割を果たしてきました。6世紀ころには国内でも鉄が生産されるようになり、鉄の道具はますます日常生活に浸透しました。
埼玉県内の鉄生産は、8世紀初頭ころから始まったと推定されます。埼玉には鉄鉱石の産地はないので、川の砂鉄を原料としていたようです。8世紀後半から10世紀にかけての製鉄の遺跡は、県内で十数か所確認されています。
嵐山町では製鉄遺跡はありませんが、鉄の塊を熱し、叩いて形を作るための鍛冶炉は四遺跡から発見されました。農耕具を作ったり、壊れた道具を再加工したりと大活躍だったことでしょう。
- 鉄製の農具(イラスト:森井勝利)
- 当時の農民は鋤や鍬を使って、田畑を耕していました。基本的な形は現在使用しているものと同じですが、大きく異なる点があります。当時の鋤や鍬は鉄製の刃先に木製の台木を挟み込んで使用しました。貴重な鉄を有効に利用するための、理にかなった形態ということもできるでしょう。
- 鍛冶炉(大木前遺跡1号住居跡、県立埋蔵文化財センター提供)
- 大木前遺跡では3軒の住居跡から鍛冶炉が発見されました。小さく浅い穴で、床土が焼けて変色しています。溶けて残った滓や、叩くときに飛び散る小破片などが見つかる場合もあります。ムラの中で鉄の道具をつくったり、破損品を修理したものと思われます。
- 鍛冶職人(『職人歌合絵巻』複製、国立歴史民俗博物館提供)
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中世の鍛冶職人の仕事風景。二人の職人が、金床の上に置かれた鉄を叩いて製品を作っています。奥には真っ赤に焼けた鍛冶炉と鍛冶炉に空気を送り込む箱鞴(ふいご)がみえます。 - 大工仕事(『當麻曼陀羅縁起絵巻』、国宝、光明寺提供)
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中央に手斧をもって板を削る男が描かれています。 - 芳沼入遺跡出土鉄鎌(県立埋蔵文化財センター蔵)
- 鎌は稲刈りや除草に大きな威力を発揮しました。現在の鎌と形態はよく似ていますが、柄の装着部がややちがいます。
- 刀子(六丁遺跡出土)
- 長さ18cm、刃渡り12cmの細身のナイフです。
- 砥石(六丁遺跡16号住居跡出土)
- 凝灰岩製の砥石。鉄器は使用することによって刃がこぼれ切れ味が悪くなります。こうした砥石を使って刃を研ぐことが必要となります。
- そのまま残っていた鎌(熊谷市北島遺跡、県立埋蔵文化財センター提供)
- 北島遺跡からは柄の付いた状態の鎌が発見されています。木の柄に刃を挟み込んで使用していました。
大木前出土鏡の謎
大木前遺跡の一軒の住居跡から銅の鏡が発見されました。中央の紐をつける鈕(ちゅう)とその周囲だけの小さな破片です。鑑定の結果、中国や朝鮮半島からもたらされた「斜縁二神二獣鏡(しゃえんにしんにじゅうきょう)」をもとに、日本で作られた復製品であることが判明しました。四世紀中ごろの製作と見られます。
その鏡が、およそ500年後の平安時代の住居に残されていたのです。なぜでしょう。古墳時代の先祖からの家宝なのでしょうか。でもそれならば小さな破片というのも納得がいきません。家の住人がどこかで拾ったのでしょうか。この家には鍛冶(地金〈じがね〉を熱し、叩いて道具を作る)の炉が作られていました。職人の家だったのです。何かの材料に使おうと、とっておいたのでしょうか。遺跡は答えを明かしてはくれませんでした。謎は深まるばかりです。