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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.武士団の登場

秀郷草紙|写真 『秀郷草紙(ひでさとそうし)』(金戒光明寺〈きんかいこうみょうじ〉蔵) 平将門の乱(935〜940)。坂東一円をほぼ制圧した平将門は、新皇に即位しますが、平貞盛、藤原秀郷らに敗れました。武力による反乱を武力で鎮圧した武士たちの活躍は、やがて訪れる武士の世の中を暗示する出来事となりました。

前九年合戦絵詞|写真前九年合戦絵詞(重要文化財、国立歴史民俗博物館所蔵) 源頼義、義家親子の軍勢が行軍する場面です。前九年・後三年の役(1051〜1062)として知られるこの戦いでは、多くの武蔵武士たちが参戦し、棟梁である源氏との深い主従関係を結びました。

律令制度の崩壊

荘園の成立

 律令の根幹となる口分田の制度は、そもそも当初から矛盾を抱えていました。一番の問題は、人口の増加に伴う田地の不足です。朝廷は開墾を奨励しましたが、国のための奉仕労働と同じですから一向に進みません。朝廷は策に窮し、ついには自ら法の原則を破って新田の私有を認めてしまうのでした。大宝律令制定からわずか40年後のことです。
 凶作の年にも容赦なく一律に課せられる税に庶民は疲弊し、逃亡者も続出する一方で、財力を持つ一部の者は新制度を逆手にとって、山野を次々に開墾していきました。新田は、税負担を免れるため形式的に貴族や寺院へ寄進されました。これが「荘園(しょうえん)」です。公地公民という国を治める大原則が崩れ、朝廷の信頼も揺らぎはじめました。朝廷では度々改革を行おうとしますが、かえって有力農民層の反発を招き、坂東では「群党蜂起(ぐんとうほうき)」という混乱が生じました。そして平将門の乱、前九年・後三年の役などのような大規模な反乱も起るようになりました。

武蔵武士の分布図 武蔵武士の分布 武蔵国を中心とする関東には坂東八平氏の秩父(畠山)氏をはじめ、武蔵七党と呼ばれる多くの武士団がありました。彼らは同族の結束が堅く、戦場では勇敢に戦う精鋭軍団でした。源氏や平氏の棟梁と結んで在地における勢力を次第に拡張していきました。

武士団の誕生

 折しも平安時代は、気候が寒冷化していて、各地で飢饉が相次ぎました。伝染病が蔓延することもしばしばでした。国の乱れに拍車がかかっていきます。こうした情勢の中で、社会不安を自分たちの力で切り抜けて行こうとする人々が現れました。彼らは「武勇輩(ぶゆうのともがら)」と呼ばれ、始めは土地の所有を巡る争いなどの自衛団でした。やがて反乱の鎮圧などを通じて、次第に組織化、精鋭化された武力集団に成長します。こうして武士団は生まれました。
 武士たちの力は、辺境の地でより強まり、全国各地でも次々と武士団が結成されていきました。ついには西国の大武士団を率いる平氏一門が、朝廷で権力を握るに至ります。絵巻物に見るような、朝廷を取り巻く、優雅な貴族たちによる政治体制に終止符が打たれることになるのです。

大蔵館跡(県指定史跡)
大蔵館跡|写真 帯刀先生源義賢は、平安時代の末期、1153(仁平3)年、川越重隆の養君となって上野国多胡(群馬県吉井町)から、ここ大蔵館に移り住んだと伝えられます。
伝源義賢(みなもとのよしかた)の墓(県指定史跡)
伝源義賢の墓|写真 義賢の墓と伝える五輪塔は空風輪と地輪が当初のものではなくなっていますが、県内最古の部類に属する優品です。
白磁四耳壺(はくじしじこ)(大串次郎重親墓出土、吉見町教育委員会提供)
白磁四耳壺|写真 大串次郎重親は畠山重忠が烏帽子親をつとめた武将で、源平の戦いにも従軍しました。この四耳壺は鎌倉時代初期に中国で作られたものです。
源氏系図
源氏系図 清和天皇の孫経基が鎮守府将軍となって源姓を与えられたのに始まる源氏は、頼信が平忠常の乱を平定し、さらに頼義・義家が前九年・後三年の役を通じて関東武士と結び、武士団の棟梁としての強力な地盤を築きました。