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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.国の礎として

丘陵に立ち昇る 窯焼きの煙

 奈良・平安時代のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢からときがわ町、鳩山町にかけての丘陵地は一大工業地帯でした。その規模は、関東でも最大といわれます。生産されたのは「須恵器」です。
 青みを帯びた灰色をしたこの焼物は、ロクロを挽いて形を作り、専用の窯を築いて高温で焼かれます。専門技術と知識をもった職人(工人〈こうじん〉)の手になるもので、工人たちの集落もありました。また薪にする木を伐り出す、材料の粘土を採取する、製品を出荷輸送するなどなど、関連する様々な作業に大勢の人々が携わっていました。
 谷津のそこかしこから窯の煙が昇り、工房の内外では人々が気ぜわしく立ち働いていたことでしょう。第5節では、こうした活気に満ちた須恵器の工業地、古代嵐山町の様子を探ります。
古代窯業のイメージ|イラスト
 古代窯業(ようぎょう)のイメージ(イラスト:長岡由紀) 丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらにひろがっていました。その丘陵地に奈良時代以降たくさんの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのためのムラを造ります。やがて、関東地方を代表する須恵器生産地として発展しました。須恵器づくりは、ロクロ使用と登り窯に象徴される外来の技術です。将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源そして地形などの好条件が合致し、たくさんの登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていました。