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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

6.須恵器の流通

生産を支える輸送路

水路と陸路

 南比企丘陵が須恵器の一大生産地となった背景の一つに、広範囲に確立していた流通路があります。製品を速やかに輸送する手段がなければ、大量生産を続けることはできないからです。美しくまた質の良い南比企の須恵器を望む声は高かったと見られます。製品は埼玉県全域はもとより、東京都や遠くは千葉県、神奈川県でも発見されています。
 製品の分布図を見ると、川を下って運ばれた様子がよくわかります。南比企丘陵の南北には越辺川(おっぺがわ)と都幾川が流れています。舟はおそらく予想以上に利用されていたのでしょう。東京都下へは、国府へ税の品々を運ぶ道がありました。東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道上道(かみつみち)がこれにあたります。分布図では、馬や人力で丘陵を越え、途中から舟で運ぶといった様子も窺い知ることができます。
 運び手たちは、赴いた先で様々な情報や各地の産物を持ち帰りました。よそから製品を引き取りに来る人もいたでしょう。南比企丘陵は、文物の行き交う、活気溢れる地だったことが想像できるのです。
須恵器の流通マップ

骨針のはなし

南比企産須恵器(将軍沢1A窯跡出土)とその部分拡大
南比企産須恵器と部分拡大|写真
南比企産中世瓦(宮ノ裏遺跡出土)とその部分拡大
南比企産中世瓦と部分拡大|写真

 一見するとどれも同じような土器。研究者たちは多種の要素を総合的に分析して時期や産地を決定しています。けれども、南比企丘陵産の須恵器には、誰にでもそれとわかる便利な目印があります。それが海綿骨針(かいめんこっしん)です。
 長さ1ミリメートル前後、毛髪よりも細いこの物質は、文字どおり海綿の仲間の骨組織が海底に堆積する泥の中に残ったものです。およそ1千万年前ころだそうです。かつての海底が隆起し、地表近くで風化して粘土層となったのです。南比企丘陵と周辺地域では例外なく含まれています。粘土を焼くと、白くなって鮮やかに姿を浮かび上がらせます。他の地域の粘土でも時折確認されますが、こと須恵器に関しては、南比企産に限定できるのです。
 南比企の須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物で、形だけからでも産地の推定は容易なのですが、骨針の有無が決定打となります。おかげで、流通先の把握はどこよりも確実です。考古学の研究に一役かっている太古の化石の話です。