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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.都人の生活

平城京右京七条一坊の貴族の屋敷復元模型|写真
平城京右京七条一坊の貴族の屋敷復元模型(奈良文化財研究所提供) 敷地は「一町」東西120m、南北103m、面積12000m2。主要建物の建築面積は7002以上となります。貴族か高位の役人の邸宅と考えられています。

貴族の生活|写真
貴族の生活(『年中行事図屏風・内宴図』住吉如慶、17世紀、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/ 平安時代に宮中で催された私宴の様子を描いた絵です。寝殿造りという建築様式をよく伝えます。舞妓が舞を献じる場面が描かれています。

賑わう都

 推古(すいこ)天皇の摂政として活躍した聖徳太子が没すると、豪族の蘇我氏(そがし)が権勢を振るうようになります。これを憂えた中大兄皇子(後の天智天皇〈てんちてんのう〉)が側近の中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと立ち上がり、再び天皇を中心とした国造りに着手しました。大化改新です。
 以後約半世紀をかけて、徐々に国家の体制は整っていきました。行政の決りや刑罰を文章で表した法律が制定され(大宝律令〈たいほうりつりょう〉)、土地と国民は「公地公民」つまり天皇のものと定められました。戸籍によって民の一人びとりに目を配ります。全国を60余りの国に、さらに国を細かく郡に分けて、それぞれに役所を置きました。一国の政治を執るにふさわしい都「平城京」も完成しました。
 こうして、天皇を頂点とする中央集権国家が誕生したのです。

長屋王邸(奈良文化財研究所提供)
長屋王邸|写真 築1987年に発掘調査された長屋王の広大な邸宅跡からは、多数の建物跡や10万点を超える木簡の発見がありました。

都の市|イラスト
都の市(イラスト:森井勝利) 平城京には「市」が設けられていました。都市では自給自足の生活が難しいからです。食料品、生活用品が交換されていたようです。庸・調の余り物が並ぶこともありました。

平安京の庶民|写真
平安京の庶民(『年中行事絵巻模本』狩野養信ほか、19世紀、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/ 小社の境内で闘鶏を奉納する場面です。竹を組んだ網代壁の板屋のなかにいる巫女、荷を頭上にかつぐ女などが見えます。