嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
4.谷筋の開発・丘陵地のくらし〈広野・六丁遺跡〉
丘陵と谷の生活
嵐山の地形の特徴は、「丘陵」という一言で表すことができます。都幾川・槻川水系と市野川・粕川水系に流れ込む幾筋もの小川が、台地を削って谷を作り出し、地図を見るとまるで木の幹から小枝が無数に伸びているような地形です。細い谷と急斜面の尾根が幾重にも連なる土地なのです。しかし人々はこの地に根をおろし、決して住みやすいとはいえない山と谷を、逆に巧みに利用して暮らしてきました。
六丁ムラの推移
- 第1期(8世紀前半)
- ムラの始まりは2軒の住居からでした。
- 第2期(8世紀後半)
- 家の数が増えました。
- 第3期(9世紀前半)
- 多くの住居が井戸を中心として、尾根の先端部に集まりました。
- 第4期(9世紀後半)
- 住居は再び尾根全体に広がります。
- 第5期(10世紀)
- ムラの規模は縮小されていきました。
- 六丁遺跡全測図
- 北東方向に張り出す丘陵の斜面部に34カ所の住居跡が検出されました。
- 土師器甕
- 奈良時代末期から平安時代初期にかけて使われた甕。煮炊きに使われました。非常に薄く仕上げ、熱伝導を高めています。
- 1号井戸跡
- 丘陵上の集落では水を得るのが大変です。井戸跡は深さ1.35mで岩盤まで掘り込まれていました。湧水は期待できませんが、天水を溜めておき、生活用水に利用したのかもしれません。周囲の小さな柱穴は、井戸に関わる施設のものと見られます。
- ロクロ土師器の椀
- 10世紀後半以降、須恵器の食器に替わって流行しました。
- 須恵器出土状況
- 中央は蓋、右は坏です。
- 羽釜(はがま)
- 10世紀以降になると、煮炊用の土器がつばを付けた羽釜という形態に変わります。鉄製のものを土器に移した形といわれています。
- 奈良時代の須恵器坏
- 須恵器はこの頃から一般庶民の間にも日用品として普及しました。
- 奈良時代の須恵器蓋
- 小さな壺に被せる蓋です。
- 8世紀後半の住居跡(3号住居跡)
- この住居跡からは、「有有有」と文字の刻まれた紡錘車が出土しています。(「第3節:生活と産業-2.糸と衣服のこと」に写真)
- 10世紀後半の住居のカマド(18号住居跡)
- この頃からカマドが住居の隅に寄り、燃焼部が壁ラインの外に出るなど、住居形態がかなり変容します。
- 刀子出土状況(18号住居跡)
- 長さ21.8センチ、刃渡り15.1センチ。完存する刀子です。木の柄に付けるために茎部には目釘穴が開けられています。今のナイフとほぼ同様の形・機能と考えてよいものです。
- 34号住居跡
- 床面に炭化した木材が散乱していました。火事で焼け落ちた住居跡と思われます。遺物はほとんど残されておらず、出火当時にうまく持ち出せたものでしょうか。
ヌマの歴史
溜池潅漑
嵐山町やその周辺には、小さな溜池が無数にあります。通称ヌマ。水田の潅漑用水源として人工的に作られたものです。ヌマは谷の最奥にあり、下流には小さな田が連なります。この田はとくに谷津田(やつだ)と呼ばれます。現在は多くの谷津田は消滅しましたが、小高い山に挟まれたヌマの歴史は水田の歴史、地域の開拓史に直結しています。
近年、嵐山町、滑川町などで急峻な丘陵が連なる一帯が広範囲に発掘調査される機会がありました。ヌマと谷を見下ろす丘陵上に奈良・平安時代の集落が点在していました。遺跡のあり方を通して、古代の溜池潅漑の実態が解き明かされつつあります。
- 7世紀の木製樋管(ひかん)(大阪府立狭山池〈さやまいけ〉博物館提供)と現在の狭山池(右)
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大阪府南部にある面積39ヘクタールの巨大な人工池です。古事記や日本書紀にも登場し、最古の溜池とされます。巨大な堤防の下から17世紀の樋管が、更にその下からは7世紀初頭の樋が発見されました。樋は長さ70mにも及びます。 - 町内の溜池
- 町内には170カ所もの溜池があり、そのうちの100カ所以上は七郷地区に集中します。東隣の滑川町にかけては埼玉県内でも有数の溜池密集地域です。
- 花見台遺跡群周辺航空写真(県立埋蔵文化財センター提供)
- 滑川(右上)、粕川(左下)に向かって、小さな谷が注いでいます。谷頭には溜め池(沼)がつくられています。遺跡はこうした支谷に面した場所から発見されました。
- 芳沼入(よしぬまいり)遺跡6号住居跡(県立埋蔵文化財センター提供)
- 6号住居跡は長方形の住居跡で、カマドがついています。焼土や炭化材が発見され、火災を受け焼け落ちた住居であったことがわかります。
- 芳沼入遺跡全景写真(県立埋蔵文化財センター提供)
- 粕川に開析された谷の谷頭部にあります。8世紀後半から9世紀前半頃にかけての住居跡が6軒、谷に面した南東斜面につくられていました。
- 芳沼入遺跡6号住居跡出土須恵器水瓶(県立埋蔵文化財センター蔵)
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水を入れた壺の一種。比丘十八物の一つに数えられ、仏教関連の遺物と考えられます。
奈良県法隆寺に伝わる国宝の観音菩薩像(通称百済観音像)も左手に水瓶をもっています。 - 芳沼入遺跡6号住居跡遺物出土状況(県立埋蔵文化財センター提供)
- 急な火災であったためか持ち出せなかった家財道具が残されていました。須恵器の坏が1点、土師器の坏が4点、須恵器の水瓶が1点、鉄製鎌と刀子がありました。写真は須恵器水瓶と土師器坏が出土した様子です。
- 芳沼入遺跡6号住居跡出土土師器坏(県立埋蔵文化財センター蔵)
急斜面のムラ
そのムラの家々は、まっすぐ下に降りるのをためらうほど急な斜面にまるでへばりついているようでした。嵐山町周辺の、まさかこんな所に、と誰もが疑うような場所に奈良・平安時代のムラがあることがわかったのは、ここ十数年ほどのことです。
丘陵は、ちょうど手を広げたように、谷と尾根が無数に連なる地形をしています。尾根は指のように細長く、台地とは違います。指の付け根の又に当たるところが谷頭(たにがしら)です。人々はここを堰止めてヌマを設け、下手に谷津田を作りました。
わざわざ不便な場所に家を構えるには何か理由があるはずです。僅かにある頂上の平坦な場は、住居に優先する別の利用がされたのでしょう。たとえば畑です。斜面部は風雨で土砂が流され、養分を含む黒色の土がほとんどありません。ムラ人は、生きる糧のために良い場を譲り、斜面に暮らす選択をしたのだと推測されるのです。