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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.大きな川筋にできるムラ

川沿いに豊穣を求めて

 大きな川の両岸には、開けた土地が広がっています。川の侵食と、水に運ばれた土砂が堆積してできた、悠久の時の産物です。平坦で、しかも養分を多く含む肥沃な地ですから、農耕にはうってつけの条件が整っています。人々はこの「沖積地」の開墾に次々と乗り出していきました。
 嵐山町では、都幾川、市野川に面した高台で奈良・平安時代の遺跡が確認されています。川に沿って水田を営み生活した人々のムラと考えられます。発見される住居跡の数の多さが、ムラの規模と繁栄を物語っています。中でも大字鎌形の東落合遺跡は、400年以上も続いたことがわかりました。当時としては異例ともいえる長期間です。安定した暮らしぶりを窺い知ることができます。

金平遺跡8号住居跡
金平遺跡8号住居跡|写真 8世紀後半の竪穴住居跡。正面右奥にカマドと貯蔵穴があります。
金平遺跡全景(1978年調査)
金平遺跡全景|写真
市野川とその支流によって形成された沖積地に面した丘陵先端に立地しています。奈良〜平安時代の竪穴住居跡20軒と掘立柱建物跡1棟が発見されています。
13号住居跡遺物出土状況
13号住居跡遺物出土状況|写真 カマドの脇に甕や坏などが置かれたままになっていました。生活感を残す住居跡です。
紡錘車(ぼうすいしゃ)
紡錘車|写真 繭から糸を紡ぐときに使われる錘です。
金平遺跡出土の墨書(ぼくしょ)土器
金平遺跡出土の墨書土器1|写真
金平遺跡出土の墨書土器2|写真

上の写真は、須恵器の坏の側面に「上家」(じょうけ、かみのいえ?)と書かれています。嵐山町では文字の書かれた土器がたいへん少なく、大切な資料です。下の土器では底面に墨書がありました。
須恵器甕
須恵器甕 |写真 貯蔵用の土器です。水や酒、穀類の貯蔵にも使用されたものでしょう。

行司免遺跡上空から見た東落合遺跡遠景|写真
行司免遺跡上空から見た東落合遺跡遠景 都幾川と槻川の合流点に位置します。古墳時代の末から平安時代半ばまで続く数少ないムラの一つです。河岸には現在も水田が広がっています。

山根遺跡の遠景(大平山山頂から)
山根遺跡の遠景 |写真 遠山盆地の東端の発掘調査でムラの一隅が確認されました。ここにも、いち早く耕地の開墾に励む人々の姿がありました。
山根遺跡1号住居跡
山根遺跡1号住居跡  |写真 この竪穴住居は、カマドの手前が畳2畳ほどの広さに一段深く掘り込まれて台所の土間のようになっていました。
奈良・平安時代の遺跡分布図
奈良・平安時代の遺跡分布図

和銅開珎・銭のはなし

 大字鎌形の東落合遺跡の発掘調査現場では、ある日ちょっとした騒ぎが起こりました。なにしろ当時埼玉県内では5枚目の「和銅開珎」が発見されたのです。
 和銅開珎は708年、武蔵国秩父郡から銅が献上されたことを記念して作られ、以後奈良・平安時代には12種類の貨幣が発行されました。近年では、これらよりもさらに古い「富本銭(ふほんせん)」の存在も判明しています。
 古代の銭は、本来の貨幣としては、あまり使われていなかったふしがあります。何より流通量が少なすぎますし、人為的に埋められた状態で発見されることが多いのです。墓に埋められたり、建物の地鎮に用いられたりしています。家の中では北東隅、つまり鬼門除(きもんよ)けの御札やお守りのような役目に使われていたようです。銅製の鏡や剣は、弥生時代から実用品ではなく、もっぱら儀式の道具に用いられてきました。銅銭も祀(まつ)りやまじないの小道具のように考えられていたのかもしれません。

和同開珎(東落合遺跡出土)
和同開珎|写真
富本銭(奈良文化財研究所提供)
富本銭|写真 中国の銭の故事に因んで名付けられた銅銭です。以前からその存在は知られながらも、江戸時代ごろの厭勝銭(まじない用品)では?と考えられてきました。近年の発掘調査によって和同開珎よりもさらに古い、国内最古の貨幣であることが証明されました。