嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.大化改新による地方行政の整備
律令国家のはじまり
推古(すいこ)天皇の摂政として活躍した聖徳太子が没すると、豪族の蘇我氏(そがし)が権勢を振るうようになります。これを憂えた中大兄皇子(後の天智天皇〈てんちてんのう〉)が側近の中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと立ち上がり、再び天皇を中心とした国造りに着手しました。大化改新です。
以後約半世紀をかけて、徐々に国家の体制は整っていきました。行政の決りや刑罰を文章で表した法律が制定され(大宝律令〈たいほうりつりょう〉)、土地と国民は「公地公民」つまり天皇のものと定められました。戸籍によって民の一人びとりに目を配ります。全国を60余りの国に、さらに国を細かく郡に分けて、それぞれに役所を置きました。一国の政治を執るにふさわしい都「平城京」も完成しました。
こうして、天皇を頂点とする中央集権国家が誕生したのです。
- 武蔵国の各郡分布図
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武蔵国は21の郡に分かれていました。現在まで同じ郡名をとどめているものも少なくありませんが、当時の郡域を再現することは困難です。地図上にある文字の写真は、鳩山窯跡群から出土した瓦に刻まれていた郡名です。武蔵国分寺の屋根瓦は各郡が分担して納めていました。 - 西吉見古代道路跡(吉見町教育委員会提供)
奈良時代の武蔵国
当時埼玉県、東京都と神奈川県の一部は武蔵国と呼ばれていました。武蔵国府は東京都府中市にありました。武蔵国府を中心に、21の郡が置かれていました。各郡には郡衙(ぐんが)という役所(今の市町村役場のようなもの)があり、さらに郡内は50戸を単位とする里(り)(郷〈ごう〉)に分割されていました。現在の国・都道府県・郡・市町村という行政組織の原形がこの時代にでき上がっていたことがわかります。