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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.比企郡と男衾郡

古代の比企郡と男衾郡|写真
古代の比企郡と男衾郡 男衾郡は、現在では寄居町大字富田にある男衾駅の名称に見るのみとなってしまいましたが、古代には現嵐山町あたりで比企郡と接していたようです。

比企郡の由来

 埼玉県比企郡嵐山町の「比企」。市町村や字、山や川などのどこにも同じ名が見当たらない、この少し変った郡名は、古代まで遡ることのできる由緒ある名です。また、いくつかの郷(現在では市町村)をまとめた「郡」という単位が1300年前にすでに生まれ、今もって使われているというのも興味深いことです。
 それでは、古代の比企郡はというと、ずいぶんと狭い範囲でした。そして嵐山町は、現在の滑川町、東松山市に接する周辺が比企郡で、大部分は隣の男衾郡(おぶすまぐん)に属していたようです。鎌倉時代の『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、畠山重忠の館を、「男衾郡菅屋館(すがやのやかた)」と記しています。しかし、詳細についてはよくわからないのが実情です。古代の地図はないからです。

寺内廃寺金堂跡(熊谷市教育委員会提供)
寺内廃寺金堂跡|写真 200m四方の寺域の中に、南門、中門、塔、金堂、講堂が配置される本格的な寺院です。男衾郡大領を勤めた壬生吉志にかかわる氏寺と推定されています。発掘調査によって8世紀前葉に創建され、9世紀前半に再建、10世紀末頃には廃絶したと考えられています。
伊古乃速御玉姫(いこのやたみたまひめ)神社
伊古乃速御玉姫神社|写真 伊古神社は『延喜式』に記載される比企郡の「式内社」です。滑川町にある伊古神社周辺が古代比企郡に属した可能性は高いでしょう。
郡名瓦(ぐんめいがわら)(鳩山町教育委員会蔵)
郡名瓦|写真1 「比企」の文字が記されています。
郡名瓦(鳩山町教育委員会蔵)
郡名瓦|写真2 男衾郡を表す「男」の文字が記されています。
白布(はくふ)(宮内庁正倉院提供)
白布|写真 正倉院に伝わる布で「武蔵国男衾郡倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端 天平六年十一月」と記されています。笠原里は、小川町に笠原という地名が残り、倉郷の比定地として有力です。また、近在の官ノ倉山は「かりくら」が訛ったとの説もあります。
文字瓦(篩新田〈ふるいしんでん〉遺跡出土、ときがわ町教育委員会蔵)
文字瓦|写真 「大山」と線書きされています。このあたりが大山郷で、国分寺へ納める瓦を作ったことを示すのかもしれません。
和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう) 巻六(国立公文書館提供)
和名類聚抄 巻六|写真 平安時代10世紀頃、源順によって編さんされました。現存するものは江戸時代に書き写されたといわれています。いくつかの写本が知られていて、各国の郡郷名にやや異なる部分があります。たとえば本にある男衾郡多笛郷は、武蔵国分寺出土の瓦から留多郷の写しまちがいと思われます。また本によっては川原とされていた郷名は、平城京から出土した木簡により川面が正しいとわかりました。
類聚三代格(るいじゅうさんだいかく) 巻八(国立公文書館提供)
類聚三代格 巻八|写真 承和八年(841)、武蔵国男衾郡榎津郷に住む壬生吉志福正という人が息子二人の生涯納める調と庸という税をまとめて納めたいと申請し、許可されたという記事です。壬生吉志福正は別の文書により、男衾郡の大領を勤め、莫大な財力を持っていたことがわかっています。寺内廃寺(上写真)が壬生吉志の氏寺とすると、榎津郷は熊谷市の旧江南町周辺に存在した可能性が高くなります。
古代の郡郷名と現在に残る地名
類聚三代格 巻八|写真 古い地名の多くは、長い年月の間に失われてしまいました。しかし、「古凍」や「古里(こり)」は郡家郷の「郡(こうり)」が地名として残ったのではないかという考えもあります。