嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
4.租・庸・調・雑徭
重い税負担
いつの時代も庶民はたいへん!
律令により、農民には一人ずつ田が天皇より貸し与えられます(口分田)。その代わり、租・庸・調・雑徭などという税を納めなければなりません。
「租」は米の税です。収穫量の三パーセントと聞くと、すいぶん少なく思えますが、実は、そのほかの税が重くのしかかっていました。「庸・調」は成人男子が対象で、布や土地の特産物を納めます。そのため、戸籍を女子と偽る者まで現れる始末です。「贄」という食料品の納税もしなければなりません。
「雑徭」は労役負担です。建設工事、河川改修、税の品々の運搬など、さまざまな事業に駆り出されました。都や九州・東北の警護に派遣される兵役もありました。
- 都への道のり
- 国府から都まで税や貢納品を運ぶために、東山道か東海道、北陸道などの官道(国道)が整備されました。
- 東山道武蔵路(とうさんどうむさしじ)(東の上遺跡、所沢市教育委員会提供)
- 幅12m、長さ約300mにわたる道路の跡です。路面は踏み固められ、両脇には側溝があります。9世紀ころまで使用されました。同規模の道の跡が武蔵国分寺周辺にもあり、武蔵国府と上野を結ぶ東山道の一部と見られます。
- 西吉見古代道路跡(吉見町教育委員会提供)
- 吉見丘陵の南東部裾の沖積地に幅8〜12mもの規模をもつ大規模な道路遺構が発見されました。東の上遺跡(上写真)から連なる東山道武蔵路のルートの一部でしょうか。
- 税負担図
- 銭貨や品物で納める税と労働で納める税とがありました。租(米)は地方の役所に納めましたが、調・庸などは地方役人に引率された農民が都へ直接運ばなければなりませんでした。
- 都への遠い道のり(イラスト:森井勝利)
- 武蔵国府から都までへは片道29日もかかりましたが、役所からの援助などなくて、経費はすべて自己負担なのでした。