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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.国の礎として

鎮護国家

 仏教は紀元前五世紀、インド北部で生まれ、日本には6世紀に伝来しました。まず大和政権の実力者蘇我氏が飛鳥寺を建立、7世紀初めには聖徳太子が法隆寺を創建しました。天皇も進んで信奉するようになります。地方の有力者も氏寺として個人で寺院の建立を始めました。
 奈良時代になると仏教は、国のための宗教と位置づけられました。国土と治世の安寧を願う、つまり鎮護国家の依りどころとしたのです。国ごとに国分寺・国分尼寺を置くことが定められ、天を突くような塔と絢爛豪華な堂宇が全国各地に建立されました。仏教の普及活動は、大きな国家事業として押し進められます。

飛鳥寺(奈良県明日香村)
飛鳥寺|写真 飛鳥寺は6世紀終わり頃創建された寺です。日本ではじめて屋根に瓦を葺いた建物です。草葺や板葺き屋根しか知らなかった当時の人々はさぞ驚いたことでしょう。
飛鳥大仏(明日香村教育委員会提供)
飛鳥大仏|写真 現在の飛鳥寺安居院は、飛鳥寺中金堂の後身です。本尊の釈迦如来座像は高さが275.2cm、百済系の渡来人の子孫である仏師、鞍作止利の作風を伝えています。
東国の初期寺院、滑川町寺谷廃寺(てらやつはいじ)
東国の初期寺院、滑川町寺谷廃寺|写真 7世紀前半の瓦を出土する東国では初期の寺院跡です。
再建された薬師寺西塔(奈良市)
再建された薬師寺西塔|写真 平城京には、政府や貴族によって数多くの寺院が建立されました。
薬師寺は東塔だけが奈良時代の建物ですが、近年の伽藍復興計画により多くの堂塔が再建されています。「青丹よし奈良の都」といわれるように、当初の建物は青い甍と丹塗の柱が金で縁取られた絢爛で荘厳な雰囲気を持つものでした。 
仏教の伝来ルート
仏教の伝来ルート |地図 インドの釈迦によってはじめられた仏教が、シルクロードを経て中国に伝わったのは紀元前後のことです。中国で根付いた仏教は朝鮮半島に4世紀から5世紀にかけて伝わります。538年(552年説もある)、百済の聖明王から仏像や経典が日本に献じられました。仏教が日本に伝わるまでおよそ1000年の月日を要しました。

全国に広まる仏教

 仏教の普及に大きく貢献したのは留学僧たちです。国の外交使節団である遣唐使(けんとうし)に随行した彼らは、幅広い学識と膨大な経典(きょうてん)・書籍を得て帰国し、布教に努めました。その中でも全国的な展開を見せたのが、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)が開いた天台宗、真言宗に代表される密教系と呼ばれる宗派です。芸術性の高い仏像・曼陀羅絵(まんだらえ)や加持祈祷(かじきとう)などの荘厳(そうごん)な儀式で平安貴族の絶大な支持を得る一方、諸国の険しい山岳を修行の地として、多くの僧を育成しました。ことに東国では、道忠(どうちゅう=唐招提寺〈とうしょうだいじ〉の鑑真和上〈がんじんわじょう〉に学んだ高僧)の弟子たちによる活発な活動がありました。

慈光平(じこうだいら)廃寺(小川町教育委員会提供)
慈光平廃寺|写真 小川町にある慈光平廃寺は、金勝山の北側一帯の山中に108カ所の平場が確認された大規模な山岳寺院跡です。中世に栄えたときがわ町慈光寺の前身ではなかったかとの見方もあります。
上総国分尼寺(かずさこくぶんにじ)跡(国指定史跡)
上総国分尼寺跡|写真 千葉県市原市国分寺台にある上総国分尼寺跡は全国最大の寺域を有し、伽藍の整った代表的な国分尼寺跡として史跡整備され、金堂院の中門回廊が復元されています。
寺内廃寺、平安時代の大寺院(県指定史跡、熊谷市教育委員会提供)
寺内廃寺、平安時代の大寺院|航空写真
熊谷市千代にある寺内廃寺は、中門、金堂、講堂、東塔などの堂塔基壇跡と寺域を区画する溝や寺に付属する集落跡が発掘調査されて、本格的な伽藍を有する大規模な寺院跡であることが明らかとなりました。この寺院を中心として周辺の地域に与えた仏教的な影響には大きなものがあったと考えられます。
塑像頭部(寺内廃寺中門出土、熊谷市教育委員会提供)
塑像頭部|写真 木芯に粘土を付けて成形し、漆喰で仕上げて彩色した仏像であったと考えられています。
護摩(ごま)イメージ
護摩イメージ|写真 国の繁栄と安定を願って建立された寺院では様々な仏事がありました。特に密教系の寺院では神聖な護摩の火を用いた加持祈祷が盛んに行われました。