嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
2.嵐山町の古代仏教
庶民への浸透
瓦塔のある風景
平安時代になると、僧たちの中には、庶民の救済や援助活動を行なう者も現れました。仏教はまだまだ貴族や一部の富豪たちのものではありましたが、それでも山深い地の貧しい庶民でも、仏教に接する機会は着実に増えていきました。
平安時代の遺跡を発掘すると、ムラの中に一般の住居とは異質な建物跡が見つかったり、瓦塔(がとう)・瓦堂(がどう)と呼ばれる寺院のミニチュア像や仏教用具と同じ形の須恵器が出土したりします。庶民生活に仏教が次第に浸透していったことを窺わせます。
- 柳沢A遺跡航空写真(滑川町教育委員会提供)
- オオムラサキゴルフコース内遺跡群の一角に位置するこの遺跡では、丘陵尾根上に掘立柱の建物跡が2棟発見されました。このうちの1棟は、2×3間(5.4×6.9m)の規模で4面に廂をもつものでした。こうした建物はこの地域のムラの中に建てられた仏堂と考えられます。
- 須恵器水瓶(芳沼入遺跡出土、県立埋蔵文化財センター蔵)
- 鉄鉢(てっぱつ)形須恵器(天裏遺跡出土、滑川町教育委員会蔵)
- 復元された瓦塔(中尾遺跡出土、滑川町教育委員会蔵)
- 瓦塔は素焼きの塔です。寺院内だけでなく集落やその周辺などから単独で出土することも少なくありません。仏教が庶民の生活に広がる過程で様々な仏教行為が行われていたことを窺わせます。
- 埼玉県内の瓦塔・瓦堂出土地分布図
- 瓦塔・瓦堂は、秩父山地の東外縁部に沿って分布の中心があることがわかります。これは古代寺院の分布とも重なります。平野部を見渡す高い山や丘陵上が聖地として選ばれたと考えることもできます。
比丘尼山古代寺院
大平山の山頂から少し下った、尾根が東に張り出すあたりに、何段か雛壇状になっている一画があります。現在は木々に覆われ、はっきりしませんが、斜面を削り、平坦に整地しています。たいへん眺望がよく、広く嵐山町内を見渡すことができる場所です。
その最上段の平場を発掘調査したところ、建物の痕跡が見つかりました。柱を支える礎石(そせき)は、小さいながらもしっかりとした造りの建物があったことを語ります。同時に屋根瓦も出土しました。古代の瓦は寺院専用ですから、ここにかつてお堂が建っていたことが実証されたのです。いっしょに出土した土器などから、お堂は八世紀から九世紀末ころまで続いたことがわかりました。
比丘尼山の建物は、金堂や五重の塔がそびえ立つ荘厳な寺院には実際程遠いものです。しかし庶民を対象とした、草の根仏教活動の原点ともいうべき姿をよく示しています。後の中世にかけてこの周辺地域で栄える、平沢寺や慈光寺などの山岳寺院につながるものと考えられます。
- 比丘尼山廃寺遠景
- 大平山の麓からの遠景です。頂上から少し下った緩やかな斜面(矢印)にあります。
- 検出された礎石建物跡
- 斜面の最上部に位置する第1平場から礎石を置く建物の跡が発見されました。周辺から出土した瓦の破片により屋根の一部は瓦葺きであったと考えられます。
- 建物の礎石
- 礎石には付近で産出する結晶片岩を使用していました。
- 布目瓦の出土状態
- 出土した瓦は平瓦と丸瓦のみで軒瓦は含まれていません。
- 出土した鉄釘
- 長さ10cmほどの鉄釘は建物の建築に用いられたものでしょう。
- 比丘尼山寺院の再現イメージ(イラスト:田畑修)
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山腹に分布する平場と検出された建物跡などから当時の様子を再現してみました。 - 礎石建物跡実測図
- 部分的に残っていた礎石から2×3間(6×9m)の建物跡であることが確認されました。