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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

2.糸と衣服のこと

紡錘車(金平遺跡39号住居跡出土)
紡錘車|写真 紡錘車とは糸を紡ぐときに使用する道具の一部です。中央の穴に軸棒を通し、回転させることで撚りをかけます。石製のものが一般的ですが、土製や鉄製のものもあります。
刻字紡錘車(六丁遺跡3号住居跡)
刻字紡錘車|写真 石製紡錘車の上面に「有」の字が3つ刻まれていました。「有」の意味は不明ですが、紡錘車には人名や地名、紀年銘あるいは仏像や蓮弁など仏教関係の絵画を描くものなどがあります。古代の遺物の中で、文字の書かれる頻度は土器についで多いものです。糸を紡ぐという行為に対して特別の意味を持っていたものでしょう。

養蚕と織物

紡錘車は語る

 嵐山町や周辺の地域一帯は、つい最近まで養蚕が盛んで、絹織物の一大生産地帯でした。八高線は、絹製品輸送のために敷設された鉄道です。五百年の歴史に培われた産業です。
 奈良時代、武蔵の国は麻の布を税として納めていました。平安時代になると、あしぎぬ・帛(はく)という絹織物も仲間入りします。この時代の遺跡からは、中心に穴のあいた土製、石製の円板がしばしば出土します。紡錘車と呼ばれる、糸紡ぎの棒につける弾み車です。糸紡ぎ、機織が日常的に行なわれていたことを示す資料です。

機織りの様子(県立さきたま資料館提供)
機織りの様子|写真 絹糸は機織りによって布になります。足を投げ出した姿勢で織る地機と椅子に座るような姿勢で織る高機がありました。
地方役人の衣服(市川市立考古博物館提供)
地方役人の衣服|写真
正倉院に伝わる衣服を基に苧麻の麻布で複製したものです。左上は早袖(重労働の時の肩の覆い)、中央は布袍(上着)、左下は布衫(肌着)、右下は布袴(開股式はかま)。地方の下級役人や下働きの人々に支給された制服です。庶民の服も麻布製の粗末なものだったようです。 
金銅製雛形高機(たかはた)(伝福岡県沖ノ島出土、国宝、宗像大社提供)
金銅製雛形高機|写真 8〜9世紀頃に沖ノ島に奉納されたミニチュアの高機です。実物に忠実な形と考えられます。

古代の染めと織り

いにしえの装い

 源氏物語には、十二単(ひとえ)などのきらびやかな様子が描かれています。奈良・平安時代の貴族たちは、錦(にしき)や羅(うすぎぬ)などという複雑華麗な文様を織り出した色とりどりの絹の衣装を纏っていました。これら高級織物は、高度な技術をもった職人によって、朝廷の管理のもとに製作されたようです。絹糸と染料は、税として諸国から調達されました。武蔵国では、染色に使う茜(あかね)・紅花(べにばな)・紫草(むらさきぐさ)を納税しています。
 一方庶民はというと、麻(あさ)や苧麻(からむし)などの平織りの布を縫い合わせた、いたって簡単な衣服だったようです。農作業や日常の労働には、そのほうが実用的だったかもしれません。木綿が一般に普及するのはずっと後の時代でした。

奈良時代の装束

  • 養老の衣服令による命婦礼服|写真
    養老の衣服令による命婦礼服
  • 養老の衣服令による文官礼服 |写真
    養老の衣服令による文官礼服

平安時代初期の装束

  • 平安初期の女官朝服 |写真
    平安初期の女官朝服
  • 平安初期の文官朝服|写真
    平安初期の文官朝服

平安時代の礼装

  • 公家女房、裙帯比礼の物具装束|写真
    公家女房、裙帯比礼の物具装束
  • 公卿束帯|写真
    公卿束帯
貴族の服装(風俗博物館写真提供)
奈良時代の大宝元年(701)に制定され、養老2年(718)に改定された衣服令は、中国唐代の服制にならった制度です。以後平安時代にかけての貴族の服装の基準となりました。それぞれ位階によって、また儀式の内容などによって衣の色や形が細かく定められていました。奈良時代から平安初期ころまでは、まだ唐風そのままの衣装ですが、平安時代中期になると次第に十二単のような日本的な装いに変化しているのがわかります。