嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
4.古代の食卓
ご飯とおかず
米を食べるようになってから、主食と副食、つまりご飯におかずの取り合わせという献立が定着したようです。焼く、蒸す、茹でるといった基本の加熱調理以外にも、和える、煮込むなど、いわゆる「料理」の種類も増えました。これには、醤(ひしお)(味噌・醤油の原形)や酢の普及が大きく貢献しているとみられます。けれどもまだ味付けに趣向を凝らすことはあまりなかったようで、塩・酢・醤を各自が好みでつけて食していました。この時代の食事は、一日二食が通常でした。箸の使用が一般化したのも平安時代頃のことです。
- 奈良時代の須恵器(鳩山窯跡群出土、鳩山町教育委員会蔵)
- 鳩山窯跡群からは、須恵器の坏や椀、皿、壺、甕類などが生産されていました。火にかけて煮炊きする器はもっぱら土師器が用いられました。この他、木製の容器や曲げ物、柄杓や箸なども存在したことが知られています。
- カマド(常陸風土記の丘)
- 炊事には竪穴住居内の一隅に設けられたカマドが使われました。
- そのまま残っていたカマド(群馬県村主遺跡、群馬県埋蔵文化財調査事業団提供)
- 石組のカマドに羽釜が掛かった状態で発見されました。羽釜の周囲は石や土器片で塞いで炎が漏れるのを防いだようです。
貴族の食事、庶民の食事
一日二食、一汁一菜
都には全国の特産品が税として届きます。おかげで、貴族の食卓のメニューは多彩なものでした。果実やチーズに類する乳製品のデザートまで登場します。餅菓子やかりん糖のような揚げ菓子もあります。宴会の席では、台盤(だいばん)という銘々のテーブルに贅を尽くした山海の珍味がずらりと並べられました。
かたや農民、庶民の食卓はというと、何とも質素なものです。米を作ってもあらかた税にとられてしまうので、主食はむしろ麦、粟(あわ)、黍(きび)、稗(ひえ)などの雑穀です。腹がもたないので間食をとりますが、それでもカロリーは不足気味でした。
- 庶民の食事(再現)
- 造東大寺司で下働きした駈使丁は、一日あたり、黒米(玄米)2升、(今の約8合に相当)と塩、酒糟、海藻が支給されたという記録が残っています。ここでは稗ご飯と青菜入りの汁、ワラビ、塩少々という食事を想定してみました。
- 下級役人の食事(再現)
- 主食は玄米です。副食としてシジミの汁、焼き魚、青菜のおひたしがつきます。調味料は塩です。貴族の食事に比べると質素なものでした。
- ある日の貴族の食卓の再現(奥村彪生氏・奈良文化財研究所提供)
- 主食は蓮の実入りご飯(前列左、後列左は蓮の葉に包んだもの)。副食には山海の珍味が並びます。鮑、海鼠、蛸などは干したものを水で戻して調理しました。味付けはあっさりとしたものが多く、醤油に似た醤や塩(前列中央)の調味料で食しました。また、発酵食品である漬け物(後列右)や醢と呼ばれる鹿肉の糀入り塩辛(後列右から2番目)、乳製品の蘇(2列左端)などもみられます。食器は、ふだんは漆器、特別な日には金属製が用いられました。
長屋王の食卓
天武天皇を祖父にもち、謀略に陥るまでは当代きっての貴族であった長屋王。邸宅跡の発掘調査で出土した膨大な量の遺物は、どれもが第一級の資料となっています。その中に、王に届けられた食料品の荷札「木簡」があります。
これは貴重な発見でした。長屋王家の台所を、僅かながらも勝手口からのぞき込むようなものだからです。料理に油を用いていたことや、王が牛乳を飲んでいたことがわかりました。茄子や瓜の粕漬なども目を引きます。極めつけが夏に氷室(ひむろ)から取り寄せた氷です。日中、冷たい飲物で涼をとったか。それとも宴会で酒のオンザロックが振舞われたのか…。興味は尽きません。