嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
2.コラム:秩父氏と平沢寺
- 鋳銅経筒(県指定文化財、平沢寺蔵)
- 高さ23.5cm、径12.6cmの経筒には、久安4年(1148)年、当国大主平茲縄が施主となって埋納したという意味の銘が刻まれています。この平茲縄は、畠山重忠の曾祖父重綱と見てほぼ間違いなさそうです。
秩父氏は、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の出身で武蔵武士と呼ばれた関東の武士団の中でも代表格の有力な家柄です。一族は各地に分散してそれぞれ別な名字を名乗るようになりますが、同族の結束は強く、大きな勢力を誇りました。その一族の嫡流である秩父氏は、嵐山の地ととても深いつながりをもっていました。
大字平沢の平沢寺(へいたくじ)に銅製の経筒があります。塚に埋納するための経文を入れる容器です。表面には1148年に平朝臣茲縄が奉納した、との趣旨が刻まれています。この茲縄とは、秩父重綱(しげつな)と考えられます。秩父氏は重綱の代に、在京の国主に代わって政務を司る「武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)」に任命され、以後世襲で継承されました。大蔵館に源義賢を迎え入れた川越重隆(しげたか)は重綱の子、菅谷に館を構えた畠山重忠は重綱の嫡流の曾孫にあたります。嵐山の地が早くから秩父氏の勢力下にあったことがよくわかります。
平沢寺は、畠山重忠のころには浄土庭園(じょうどていえん)を持つ荘厳な伽藍(がらん)を誇る寺院へと発展したことが、発掘調査によっても裏付けられています。平沢寺の経筒は、古代から中世の武士社会へと踏み出そうとする、まさにその第一歩ともいえる時期を後世に伝える貴重な資料です。鎌倉幕府が開かれるのは、45年後のことです。