嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
中世の館と城
武士の住居である館(やかた)・要塞(ようさい)としての城。
平城(ひらじろ)、山城(やまじろ)、砦(とりで)、それぞれに役割を分担した城のかたち。
嵐山町では全てをみることができます。
1.大蔵館跡
発掘調査でよみがえる中世武士の居館。
大蔵館の沿革と現況
伝えによれば、義賢がここに居住したのは1153(仁平3)年から1155(久寿2)年8月にかけての僅かに2年あまりということです。中世初期の武士の館は単郭式方形館(たんかくしきほうけいかん)と呼ばれ、簡単な堀と土塁(どるい)によって周囲を取り囲みます。現存する大蔵館は、ほぼ四隅に土塁と空堀(からぼり)の遺構をとどめています。これから往時(おうじ)の様子を想定すると東西が170メートル、南北が215メートルの規模と考えられます。また、大蔵館がある御所ケ谷戸(ごしょがやと)という地名は、源氏の嫡流(ちゃくりゅう)の血を引く義賢にふさわしく、「高貴な方の住まわれる垣内(かきうち)」という意味かもしれません。また高見倉と呼ばれる塚状の盛土は、高見櫓(やぐら)が転じたものとも解釈できます。
- 大蔵神社の森/県指定史跡
- 現在の大蔵神社は、明治になってから周辺にあった稲荷社や山王社などを合祠(ごうし)したものです。この付近の地形は、周囲よりも一段高くなっており、土塁や堀もひときわ規模が大きく造られています。おそらく館の主の屋敷のような重要な建物があったところと考えてよいでしょう。
- 大手門跡と考えられる小口
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館の東辺は、現在道路となっています。この道を改修する際に実施した発掘調査で検出された土塁の痕跡は、間が切れて前後に僅かな食い違いをもっていました。また、この付近の外堀は外側に張り出しており、門の遺構こそ発見されなかったもののここが鎌倉街道に面した大手口であったことがわかりました。
発掘調査された大蔵館
土の中に眠りつづけていた大蔵館が目を覚ましたとき、義賢居住の伝承とは全く異なった事実の数々が明らかとなりました。 鎌倉街道に面して東に開かれた大手の小口(こぐち)、数々の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、石組を持った井戸跡、大きく堅固に盛土された土塁(どるい)など調査で見つかった遺構は、義賢の時代から150年ほど隔てた鎌倉時代の終わりから南北朝時代のものばかりだったのです。館の主はいったい誰だったのでしょうか。残念ながら記録には残されていませんが、南北朝の争乱期を前後して鎌倉街道の道筋上で数多くの合戦が繰り広げられていることを考えると、この館は戦略上重要な位置にあったと見られます。
- 館跡東南隅に残る土塁
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町道104号線に沿って土塁と空堀(からぼり)の跡を見ることができます。これにより館の東側の限界を知ることができます。
しかし、南側は今の県道工事の際に土塁が崩されてしまい現存しません。 - 掘立柱建物跡
- 地面に穴を掘って柱を建てた簡素なつくりの建物跡が何ヵ所も見つかっています。館内には倉庫や厩(うまや)などの建物が建ち並んでいたと考えられます。
- 土塁(断面)
- 館のまわりには深い堀とその内側に高く盛られた土塁がめぐっていました。しかし、道路工事や宅地化が進むうちにほとんどの土塁は崩れて、堀は埋められてしまいました。現在でも見ることのできる土塁は断片的なものですが、わずかながらも往時をしのぶことができます。
- 土師質土器皿(はじしつどきさら)(カワラケ)の出土状態
- 素焼の皿が43枚もかたまって出土した状態です。カワラケは灯明皿や儀式用として大量に消費された器です。
- 石組の井戸跡
- 発掘調査で見つかった井戸跡は、全部で3カ所ありました。そのうちの2カ所は人の頭ほどの玉石を円形の井筒に組み上げたものでした。このような井戸は行司免遺跡でも見つかっており、鎌倉時代の終わりから南北朝時代頃のものと考えられます。