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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.菅谷館(城)跡 すがややかた(しろ)あと

戦国時代の築城技法を随所に見ることができます。

重忠の館と伝えるが実は戦国の城郭

 鎌倉幕府の正式記録といわれる『吾妻鏡』には畠山重忠が二俣川に出発したのは「菅屋の館」とあります。重忠は、深谷市の畠山の館で生まれ育っていますが、鎌倉への交通にも便の良い、ここ菅谷の地へ進出したのだと考えられています。しかし、現在の菅谷館跡に重忠の頃の面影はどこにも見いだすことはできません。今見ることのできるのは戦国時代の城郭の姿なのです。都幾川に面した断崖の上に構えられたこの城は、城主や戦いの記録を伝えてはいませんが、戦国時代の築城技法を随所に見ることができます。

上空から見た菅谷館(城)跡/国指定史跡
上空から見た菅谷館跡|写真
都幾川は南郭(みなみぐるわ)と本郭(ほんぐるわ)の裾を蛇行して長慶寺淵(ちょうけいじぶち)と呼ばれる深い淵をつくっていたといわれています。現在の郷学研修所辺りに長慶寺はあったと伝えられ、また、城の西側の蝶の里公園付近には上石堂という小字が残っていて、農免道路建設に伴う発掘調査の際、寺の存在を示す板碑も出土しています。
菅谷城縄張図
菅谷城縄張図 城への3カ所の出入口(小口)を通って本郭へと通じる城内の通路がこのように想定されます。とくに生門(しょうもん)の北側から入り、直接本郭へ向かわずに堀道(ほりみち)を通って三ノ郭を迂回(うかい)するルートは、現在畠山重忠像の建てられている桝形の構造から想定したものです。

輪郭式(りんかくしき)の縄張(なわばり)

 この城の総面積は約13万平方メートル、東側と西側の外堀は自然の谷を利用した深い堅固なものとなっており所々に泥田堀(どろたぼり)も見られます。都幾川に面した南端の断崖の上には本郭(ほんぐるわ)があり、北側に二ノ郭・三ノ郭・西ノ郭が同心円状に取り囲んで配置された輪郭式の縄張となっています。さらに城の外側をとりまくように自然の侵蝕谷があって何重にも防禦(ぼうぎょ)されています。防禦上の弱点となるような箇所や人の出入りする小口の周辺は、土塁に曲折をつけたり、くい違いをつくったりと、様々な補強が見られます。こうした築城技法は、戦国時代の城に特徴的なものといえます。

搦手門復元図
搦手門復元図|イラスト (画 田畑修)
この城の最大の小口です。外堀はさらに外側の谷とつながっており、木橋を渡ると長い坂をのぼった先が門となります。門の両側の土塁は左右で前後に数mのくい違いをもっていました。
搦手門跡
搦手門跡|写真 本来ここが大手門と考えることもできる、この城最大の小口です。外側にある幅の広い自然の侵食谷を木橋で渡り、さらに小橋で外堀を越え、ゆるい坂道の土橋を入ると三ノ郭です。土橋の両側の堀と土塁はくい違いになっています。
三ノ郭の掘立柱建物跡
掘立柱建物跡|写真 (埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
歴史資料館の前庭(三ノ郭)には、木杭を埋め並べた建物跡の表示があります。これは発掘調査で検出された7m×15mの規模の柱穴跡から復元したものです。
三ノ郭井戸跡
調査中の井戸跡|写真 (埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
県立歴史資料館の建設に先がけて行われた三ノ郭跡の発掘調査では掘立柱の建物跡や井戸跡などの遺構が検出されました。
本郭
本郭|写真 この城の最も重要な場所です。ひときわ高い土塁と深い堀とに囲まれ、北側には出桝形が凸形に張り出して、侵入してきた敵を想定してにらみをきかせています。
南方は一段低い南郭を挟(はさ)んで都幾川に面する絶壁となっており、遠く小倉城や大蔵館を望むことができます。

小口(こぐち)と木橋(きばし)

 西ノ郭に大手門跡、三ノ郭に搦手門(からめてもん)跡、また、本郭の生門(しょうもん)跡の北側にも小口があり、城の外と内の出入口となっていたようです。
 また、この他、城の内部にも郭の間をつなぐ小口が何ヵ所かあります。本郭の北側小口は二ノ郭に面した土橋で、西側の出桝形(でますがた)から横矢掛(よこやが)かりがあります。この小口を出て二ノ郭から三ノ郭へ通じる小口は内桝形(うちますがた)となっていて、やはり複雑な折(おり)が施されて土塁からの強力な横矢が仕掛けられた木橋を渡らなければなりません。三ノ郭と西ノ郭の間は正てん門(しょうてんもん)と呼ばれる木橋が復元されています。西ノ郭から三ノ郭内部の様子を見えないよう「しとみ土塁」があります。

てん門木橋
正てん門木橋|写真 西ノ郭から三ノ郭に通じる小口は、堀を渡る木橋が想定されます。ここは正てん門と呼ばれ、西側から三ノ郭内部がみえにくくするためのしとみ土塁が設けられています。
てん門復元図
正てん門復元図|イラスト (画 田畑修)
西ノ郭側から正てん門を見た場面です。
ここの堀は外堀とつなっがており、また南方へ下る傾斜が急なところです。地下から自然に湧き出す水を貯えるために段々畑状に堰を設けています。
てん=土へんに占
本郭内堀と出桝形
本郭内堀と出桝形|写真 本郭の北側には土塁と堀のラインを凸形に張り出させた箇所があります。これは東側の小口を側面から援護するための防禦施設で、出桝形と呼びます。この付近の堀は幅14m、土塁上からの深さは7mもあります。
二ノ郭桝形復元図
二ノ郭桝形復元図|イラスト (画 田畑修)
三ノ郭から二ノ郭へ入る小口は、桝形となっており、堀にかかる木橋を側面から包み込むように土塁が「コ」字形にめぐらされています。現在では土塁と堀の一部が失われてし まっていますが、畠山重忠公の像の西側が小口の場所となります。
南郭
南郭|写真 本郭の南側に設けられた帯状の腰郭で南面は都幾川の蛇行によってできた通称長慶寺淵を臨む断崖絶壁となっています。
西ノ郭
西ノ郭|写真 三ノ郭の西側にあり、この城の最も外側の郭です。
オオムラサキの森活動センターの裏側から幅15m、深さ6mの堀をわたる木橋の跡がのこっており、かつては西側に鎌倉街道跡が通っていたと考えられていたことにより通称大手門と呼ばれていました。