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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

6.コラム:比企地方の城郭ネットワーク

松山城から鉢形城

 嵐山町周辺には中小規模の城郭群が3〜5キロメートルの間隔で分布します。これをよく見ると、寄居町の鉢形城と吉見町の松山城を東西に連絡するように並んでいることがわかります。
 鉢形城は北条氏邦を城主とする北関東の拠点(支城)であり、松山城は後北条氏の家臣上田氏の率いる松山衆が守りを固めた比企地域の中核的な支城です。その他の城郭群はこの二城の枝城や端城で、後北条氏の支城制の典型的な姿を見ることができます。さらにこの城郭群の分布は、都幾川を遡り上田氏の本拠東秩父村へと結ぶルートと、市野川を遡り鉢形城へとつながるルートの2つのルートが存在したようです。

松山城跡/国指定史跡
松山城跡|写真 吉見丘陵の東端にあって市野川を見下ろす山城です。後北条氏の有力な支城の一つとして上田氏が代々城主をつとめ、越後の上杉氏甲斐の武田氏との争奪戦がくり返されました。1590(天正18)年に豊臣秀吉の大軍に攻められ開城しました。
青鳥城跡/埼玉県指定史跡
青鳥城跡|写真 東松山市内の都幾川河岸段丘を見下ろす台地の南辺に位置し、本郭を中心に北方へ広がる城です。築城年代などははっきりしませんが、戦国時代のかたちを残しています。
小倉城跡/国指定史跡
小倉城跡|写真 遠山盆地(右)と小倉盆地(左)の間に半島状に伸びた丘陵上に築かれた山城です。手前の大平山と左の塩山の間から菅谷城を遠望することができ、この盆地を流れる槻川を遡ると青山城を経て小川町方面へと連絡するルートが考えられます。
比企地方の城郭網
比企地方の城郭網|図
松山城から鉢形城の間には2km〜3kmごとに中小の城が配置されています。この城郭群は都幾川、槻川を遡って東秩父を経由するルートと市野川を遡るルートの2つに分かれていたようです。
青山城跡/小川町指定史跡
青山城跡|写真 (小川町教育委員会提供)
小川町青山と下里の間にある山上に築かれた小さな山城です。下里方面は小倉城からのルート、青山方面は現在のJR八高線に沿ってときがわ町から小川へ通じるルートであり、相方のルートを監視するための役割をもっていたと考えられます。
高見城跡/埼玉県指定史跡
高見城跡|写真 小川町にあり、別名四津山城とも呼ばれている独立した山(四津山)の頂上に築かれた山城です。杉山城からは直線で5kmの距離にあり、狼煙を上げるとよく見渡すことができます。城の東側の麓は高見原と呼ばれ鎌倉街道が通過しており戦国時代の初期から合戦の絶えなかった場所です。
腰越城跡/小川町指定史跡
腰越城跡|写真 (小川町教育委員会提供)
小川町と東秩父村の境付近で、槻川が大きく蛇行して三方を囲まれた山上にある山城です。松山城主上田氏の家臣山田氏の居城であったと伝えられ、松山城から上田氏の菩提寺浄蓮寺のある東秩父とを結ぶルートの枝城と考えられます。
鉢形城跡/国指定史跡
鉢形城跡|写真 (寄居町教育委員会提供)
寄居町にあり北は荒川の断崖に面し、東は深沢川がめぐる天然の要害で、北武蔵随一の大城郭です。当地方の豪族藤田氏に迎えられた北条氏邦が城主となり、後北条氏の関東経営の拠点となりましたが、1590年豊臣秀吉の派遣した5万の大軍に攻められ開城しました。