嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
須賀谷原の戦いと太田資康 白山神社の詩歌会
命をかけた合戦と月や花をめでる文学や教養をともに併せもった武将たちが活躍するのが戦国時代です。この町でも五百年あまりの昔、合戦の陣中で詩歌(しいか)の宴(うたげ)が行なわれていました。
1.須賀谷原の合戦
戦国時代のはじめ、菅谷の台地がまだ一面に萱の生い繁る原っぱだった頃、大きな合戦がありました。
合戦の場所
合戦場を挟んで太田資康は平沢寺に陣を張りました。記録によれば、資康の陣は敵塁と相対峙していたということです。この敵塁とは菅谷城を指しているのでしょうか。また、決戦場となった須賀谷原とは現在のどの辺りだったのでしょうか。
須賀谷(菅谷)の語源については、菅(スゲ)の生い茂った野(原野)と考えられています。現在の菅谷周辺の地名から原のつく字名を数えてみると、菅谷を挟んで東の上唐子(かみがらこ)(東松山市)から西の大字千手堂にかけて、西原、東原、向原、原などの小字がみられます。上唐子から菅谷にかけては比企野原とも呼ばれることもあり、その一角に須賀谷原が位置していたと考えられます。
両上杉の抗争
足利尊氏により室町幕府が開かれると四男基氏を関東公方として東国経営にあたらせます。また上杉氏に関東管領の職を与え政務をとらせました。しかし、次第に関東は幕府とは独立した関係を持つようになり、また、上杉氏一族も山内家と扇谷家に分かれて三者は三巴の対立抗争を深めるようになります。そして、関東は次第に戦国時代へと突入していくことになります。
こうした軍事的緊張関係は、扇谷上杉定正の執事太田道灌の優れた手腕によって一時的な軍事的均衡が保たれたことがありました。しかし、やがて主君の定正によって道灌が暗殺されてしまうと、再び両上杉と古河公方を巻き込んだ泥沼の戦いに拍車をかけることになってしまいます。
道灌の死によりその子太田資康の率いる一族は、鉢形城の山内上杉方に味方し、長尾氏や古河公方は川越城の扇谷上杉方と連合するという構図を作り上げます。そしてついに1488(長享2)年6月18日両者による大きな戦闘を引き起こすことになりました。
須賀谷原の戦いは、記録によれば戦死者が700人、馬も数百匹が倒れた激戦だったということです。当初優勢に戦いを進めていた山内方は、定正率いる扇谷勢に押し返され、ついには決着のつかないまま軍を退いたとされています。