嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
3.社頭の月
「敵塁と相対し風雅を講ず、西俗には此の様なし」。
詩歌会の場面と詩
詩歌会には万里、資康のほか、鉢形城から管領上杉顕定(うえすぎあきさだ)や、相模の国から援軍に来ていた三浦道寸(みうらどうすん)などが加わっています。万里は、この詩歌の宴について「敵塁(てきるい)と相対し風雅(ふうが)を講ず、西俗(せいぞく)には此の様なし」と評しています。敵軍と対峙した陣中でも風雅を志す東国武士の気風と、疲弊(ひへい)した京都の様子を比べ、再び西へ帰ろうとする自らの行く末を思った率直な感想だったのでしょう。
万里はこの詩歌会で「社頭月(しゃとうのつき)」と題する詩を詠んだことが、その著書『梅花無尽蔵』の中に記されています。
一戦乗勝勢尚加 一戦勝ちに乗じ勢いなお加わる
白山古廟澤南涯 白山の古廟澤の南涯
皆知次第有神助 皆知る次第に神助あるを
九月如春月自花 九月春の如く月自ずから花なり