嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
時代を分けた二つの合戦
鎌倉幕府滅亡後、歴史は、南北朝時代へと急速に展開していきます。
関東はその戦乱の舞台として大きく揺れていきます。
嵐山町もまた例外ではありませんでした。
1.笛吹峠
笛吹峠に最後の戦いを挑んだ新田義宗軍。その兵力の差、8万に対して2万。
太平記の時代
1333(元弘3)年後醍醐(ごだいご)天皇を中心に足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らによって鎌倉幕府の実権を支配していた北条得宗家(とくそうけ)は滅び去り、建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)がはじまります。しかし、それは南北朝の争乱という泥沼の戦いの発端にすぎませんでした。
後醍醐天皇に対し、武家政権の樹立を目指した尊氏でしたが、弟直義(ただよし)との不仲は関東の武士たちを二分した抗争(観応〈かんのう〉の擾乱〈じょうらん〉)へと発展し、直義の毒殺により一旦は終わったかに見えたのですが、この混乱に乗じて再び南朝の勢力が北関東で挙兵し、いわゆる武蔵野合戦(むさしのがっせん)と呼ばれる戦いがここ嵐山の地をも巻き込んで引き起こされます。
笛吹峠の戦い
武蔵野合戦は、ついにクライマックスとして笛吹峠の戦いをむかえました。
新田義貞の子義宗(よしむね)と義興(よしおき)は後醍醐天皇の王子宗良(むねなが)親王を擁して鎌倉街道を南下し、一時は鎌倉まで攻め入り尊氏を窮地に追い込みます。これに対し尊氏は圧倒的な兵力をもって反撃に転じ、鎌倉街道に沿った小手指原(こてさしがはら)(所沢市)や高麗原(こまがはら)(日高市)の戦いで義宗軍を打ち破ります。義宗軍は、鳩山町と嵐山町との境にある笛吹峠に陣を敷き、最後の決戦を挑みます。しかし、尊氏軍8万に対し義宗軍2万という兵力の差は決定的なもので、激戦の末敗れた義宗らは越後や信濃方面へと落ちのびて行きました。1352(観応3)年のことでした。こうして武蔵野を舞台とした戦乱はようやく終結し、しばしの平穏がもたらされます。