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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

3.コラム:合戦のことあれこれ

源平のころの合戦

 木曽義仲や畠山重忠が活躍したころには騎馬武者同士が弓矢を射掛け合い、太刀打ち、組討ちへとうつる一騎討ちが戦いの流儀でした。
 走る馬上で弓を射るための高度な技術を修得するために、平時にも笠懸などの訓練を欠かすことなく、良馬を養い、高価な鎧や武具を身に付けられる経済力をもった武将が戦場でも圧倒的な力を発揮したのです。
 馬上の武将は、大鎧という騎射戦に適した重い鎧を身に付け、身辺を固める従者たちは腹巻鎧という身軽な装備で、弓矢、薙刀、楯などをもって従ったのでした。
 軍記物語などでは、軍勢の数を何万騎と表現します。これは厳密には騎馬武者の人数のことですが、実際には騎馬武者一人に従う従者の数をも含んで誇張しているようです。

源頼義・義家行軍の場面/国重要文化財
前九年合戦絵詞|写真
『前九年合戦絵詞』(国立歴史民俗博物館所蔵)
大鎧を着用し、弓を携えた騎馬武者の精鋭軍団が活躍するのが源平合戦以前の戦いでした。
笠懸
笠懸|写真 平成7年11月12日に菅谷館跡本郭で行われた「古式弓道まつり」の一場面です。鎌倉時代には弓馬の訓練として笠懸や犬追物なども武士のたしなみとされました。

南北朝・室町のころの合戦

 鎌倉時代の終わりころから合戦は日常的に長期化し、兵力も大量に動員されるようになり、騎馬武者の一騎討ちの時代から歩兵の集団戦へと変ってきます。長時間身に付けて戦うために鎧もより軽量な胴丸や腹巻が普及し、下卒用に腹当とよばれる簡単なものも量産されるようになります。  こうした歩兵は、足軽とよばれ、大太刀、薙刀、槍などの武器をもって、次第に戦いの主力となっていきました。弓矢も集団で用いられるようになり、攻防戦などには楯とともに重要な武器となります。また、大勢の兵が入り乱れて戦う際に敵味方や所属部隊を識別するための小旗を兜(笠印)や袖(袖印)に付けました。

太平記絵巻
太平記絵巻|写真
『太平記絵巻』「黒丸城初度軍事付羽度々軍事」の場面(埼玉県立博物館提供)
川を挟んで両軍が対峙する様子が描かれています。騎馬武者の一騎打ちという従来の戦方が、この頃には集団戦へと変っているのがよくわかります。

戦国時代

 国と国との激しい戦闘は、消耗も激しく、常に大量の兵力の補給が必要となりました。そこで、農民などを徴兵し、短期間の訓練で戦地へ送り出すことになります。
 戦いの主力武器は、長柄鑓と呼ばれる五メートルを越える長さの槍で、合戦や城攻めの最前線で敵と穂先を交えます。太刀や弓に比べ突き出すだけの使用方法が、こうした臨時に駆り出された農民兵を実戦に用いることを可能としたのです。また、槍は、騎馬の武将も用いるようになり、それまでは有能な武将を「弓取り」と呼んでいましたが、このころから合戦で大きな手柄をたてることを「一番槍」と称するようになります。
 ところで、戦国時代に新たな武器として伝来した鉄砲は、急速に普及して次第にその威力を発揮するようになりますが、依然として関東地方の戦いの主役は槍でした。

川中島合戦図屏風/岩国市指定文化財
川中島合戦図屏風|写真
(山口県岩国市岩国歴史美術館提供)
武田信玄と上杉謙信は5回にわたり決戦をいどみますが決着はつきませんでした。この絵は上杉軍を待ちかまえる武田軍の布陣の様子が描かれています。最前線に長柄鑓の足軽隊が並んでいます。
長篠合戦
長篠合戦において、織田信長と徳川家康の連合軍は、大量の鉄砲を用意し、騎馬軍団を主力とする武田勝頼の軍を討ち破りました。