ページの先頭

嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.天正松山合戦と嵐山町の武将

天正松山合戦に参戦した嵐山町の武将たち。
天下統一にひたはしる豊臣軍との戦いは激烈なものでした。

天正松山合戦と関東戦国の終焉

 戦国時代も終わりの頃には武田信玄も上杉謙信も亡くなり、関東地方の大半は後北条氏の勢力によって安定します。しかし、この頃関西方面では本能寺で非業の死を遂げた織田信長の後継者として豊臣秀吉が着々と全国の諸大名を従えて天下統一を成し遂げようとしていました。最後まで秀吉に屈することを拒んでいた後北条氏はついに二〇万の豊臣軍を迎えうつことになります。
 嵐山町の周辺では松山城と鉢形城が豊臣軍の攻撃の対象となりました。松山城にたて籠った城兵は五千人あまり、攻める豊臣軍は、総大将前田利家をはじめ上杉景勝、真田昌幸、大谷吉継などといった強兵七万の大軍でした。松山城は戦わずして無血開城しますが鉢形城はほぼ一月に及ぶ激しい戦闘の末開城します。この天正十八年の戦いで後北条氏は滅亡し、関東の戦国時代はようやく終焉を迎えることになりました。

関根丹波正事墓碑/千手堂関根智司家墓地
墓碑|写真 千手堂には関根を名乗る苗字が多くあります。この墓碑にある植田安獨斎は松山城主上田朝直の別名です。
拡大写真
天正松山合戦図
天正松山合戦図
(『東松山市史』資料編原図を改編加工)
この絵図には城方と寄手として両軍の主だった武将の名前が記されています。赤字は嵐山町からの参戦武将です。

この町の参戦武将とその後

 江戸時代に描かれた『天正庚寅松山合戦図』には寄手と城方の主だった武将の配置が記されていて、嵐山町にゆかりのある武将の名前も何人か見いだすことができます。松山城は大軍に取り囲まれ、戦いを交えることなく無血開城しますが、多くの将兵はつづく鉢形城や八王子城攻めの先兵としてただちに駆り出されたようです。しかしながら戦後の消息についてはほとんど知られていません。多くは帰農して、地元にとどまり、ひっそりと平和な暮らしを送ったと思われます。

内田広重證状/町指定文化財
證状|写真 (志賀内田耕平氏蔵)
この文書は志賀の内田家に伝わるものです。広重が広次に自分の名の一字を与えることを許した書状です。
広重広次の父子は1590(天正18)年の松山合戦の様子を記した合戦図にその名を見ることができます。
「天正十七(1589)年」上田憲定朱印状
朱印状|写真 (東松山市 石川実氏蔵)
松山城主上田憲定から「武州かたよせ郷」(現東松山市上唐子)の百姓中へ宛てた動員命令書です。来るべき豊臣軍との決戦を前に、百姓や出家した僧侶にいたるまで奔走を求めるという、緊迫した情勢を知ることができます。
遠山寺山門
遠山寺山門|写真 大字遠山にあります。遠山寺は遠山右衛門太夫光景が父正景の菩提を弔うために開基したと伝える寺です。
遠山氏は後北条氏に仕えた武将で江戸城代をつとめたりします。また、江戸時代に遠山の金さんの名で名奉行としてしられる遠山景元はその子孫だということです。