嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
2.僧万里と太田道灌
太田道灌は太田資康の父
戦乱の京都から関東へと下った僧万里。
太田道灌との出会いは生涯のものとなったのです。
太田道灌(おおたどうかん)と万里集九(ばんりしゅうく)
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」太田道灌にまつわる有名な歌です。一般に戦国の武将は戦うことにあけくれた無骨者とのイメージがあります。しかし、常に生死をかけて生きた彼らの日常は、学問や茶道などの風流をたしなむ高い知識と教養が重んじられ、またそうした人物が尊敬される時代でした。
文化的情報の少なかった関東の武士たちにとって、京都から高僧を招き教養を身に付けることは、あこがれだったのです。折しも京都は応仁の乱の真っ只中で一面の焼け野原と化し、名のある文化人たちは競って地方の有力者を頼りに疎開していました。京都相国寺で禅宗を学んだ僧万里が太田道灌と出会ったのもこのような事情があってのことでしょう。
万里の辿った足跡
万里は美濃国(岐阜県)に生まれた禅僧ですが、道灌に招かれて家族と共に道灌の居城である江戸城内に移り住んでいました。ここには度々関東各地の禅僧や武士らが集まって、詩歌の会などが開かれていたようです。しかし、1486(文明18)年、突然な道灌の訃報(ふほう)に接した万里は、ようやく住みなれた関東をあとに故郷の美濃へ帰る決心をします。万里の一行は、武蔵から上野を通り越後を経て北陸道から美濃へと帰るルートを選びます。そこで須賀谷原の戦いの直後の嵐山町へと立ち寄り道灌の遺子資康との再会を果たします。万里はいまだきなくささの抜け切らない最前線の陣中でも道灌の思い出話が尽きなかったのでしょうか、資康のもとに36日間も滞在しています。そして、出立の前夜、陣中の白山神社の社頭で9月の月によせて送別の詩歌会が催されました。