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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

8.コラム:幻の菅谷館と鎌倉街道

伝承鎌倉街道と山王遺跡

 菅谷城の中には畠山重忠の頃の館の姿は求められません。菅谷城の大手門と呼ばれていた小口も、城の西側の旧鎌倉街道跡と伝えられる堀割状遺構との位置関係から想定されたものでした。しかし、1983年に農免道路の建設に伴う山王遺跡(さんのういせき)の発掘調査でこの街道跡伝承地が、実は道ではなく堀であったということが明らかになってしまいました。これにより鎌倉街道のルートは大蔵から都幾川を渡り、城の東側を通って菅谷中学校の東側に残る小字本宿へとつながっていたとの考えが有力となってきました。また、城の大手門も従来の搦手門がこれにあたるとの見方も生まれてきます。
 それでは山王遺跡の堀はいつ何の目的で造られたのでしょうか。また、畠山重忠の菅谷館はどこにあったのでしょうか。

鎌倉街道の碑
鎌倉街道の碑|写真 オオムラサキの森の中にひっそりとたたずむこの碑は昭和33年に地元の有志の人々によって建てられました。「伊昔(これむかし)鎌倉街道」の揮毫(きごう)は東洋学者で日本農仕学校の創設者でもある安岡正篤氏のものです。
鎌倉街道ルート図
鎌倉街道ルート図 鉄筋コンクリートの橋がなかった時代、街道の宿(しゅく)は大きな川を挟んで両側に形成されます。大雨などで増水した際に川を渡ることができないからです。菅谷中学校の東側には本宿という小字があります。大蔵宿を過ぎ、都幾川を越えて本宿を通過するコースが鎌倉街道のルートと考えられます。
発掘調査された山王遺跡
山王遺跡|写真
農免道路の建設に先がけて延長170mにわたり発掘調査が実施され、大規模な堀が出現しました。所々に堰のように土橋状のものが見られますが、こうした堀は畝堀と呼ばれます。堀の底の方から出土した陶器などにより鎌倉時代頃につくられた可能性があることがわかりました。
小川町伊勢根にある街道跡遺構
街道跡遺構|写真 (小川町教育委員会提供)
標高差が10mほどもある丘陵をまっすぐに切り開いて延長140mほどの堀割状道路跡が残っています。道幅は5〜8m、両側法面(のりめん)の上幅は13mにもなります。こうした遺構は現在では嵐山町将軍沢の丘陵内をはじめ毛呂山町や寄居町などに断片的に残るだけとなってしまいました。
堀割状遺構
堀割状遺構|写真 発掘調査された山王遺跡の堀の延長は、現在でも山林の中に堀割状の凹地として残されています。本来は薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる深い堀だったものですが、このように途中まで埋められた状態は、まさに各地に残されている道路と同じかたちをしています。いつの時代かに道として使われていたのかもしれません。