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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

4.越畑城(砦)跡 おっぱたじょう(とりで)あと

鎌倉街道を見下ろす、監視の砦。

越畑城

 関越自動車道上り線の嵐山パーキングエリアを過ぎて1キロメートルほど練馬方面に走ると、そこに越畑城跡があります。大半は道路の工事で姿を消してしまいました。
 この城は、山の頂に築かれた小規模なもので、しっかりした堀や土塁などの防禦施設は見あたらず、簡単な浅い堀で仕切られた3つの郭で構成されていました。築城の年代や城主などのはっきりした記録は残されておりませんが、室町時代頃にこの地方が多くの戦乱に巻き込まれたとき、鎌倉街道を見下ろして敵の動きを監視する砦として設けられたものと考えられます。

上空から見た越畑城跡
上空から見た越畑城跡|写真
(埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
関越自動車道建設に伴う発掘調査で3つの郭と空堀や土坑などが検出されました。写真上方に見える水田は市野川の沖積地です。
城の標高は最高部で116mあり、平地との高低差は約60mあります。
現在の越畑城跡
現在の越畑城跡|写真 城山の東半分は高速道路の建設により切り取られてしまいました。

狼煙(のろし)による情報伝達

 戦国時代も、様々な情報をいかに早く正確に知るかということが、一国の運命をも左右しかねない重要な問題でした。そこで発達したのが狼煙(のろし)による情報の伝達です。立ち昇る煙の様子で敵の来襲を告げたり、味方にだけわかる合図を送ったりと様々な使い分けが行なわれていたようです。越畑城や杉山城のような山城が見晴らしの良い山頂に築かれている理由も、この狼煙を中継するのに適しているという点にあります。越畑城跡の発掘調査では炭の詰まった穴が見つかっていますが、もしかするとこれは狼煙を上げるための施設だったのかもしれません。越畑城は杉山城が築城されるまでは高見城と菅谷方面を中継する役割を持った砦のような性格があったと考えられます。

狼煙をあげた穴か?
5号土坑|写真 (埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
本郭から見つかった5号土坑と呼ばれる穴は径3m 、深さ69cmを測り、籾殻(もみがら)と真竹の炭化物が多量に出土しました。穴の一隅が非常に焼けていたところから狼煙を焚(た)いた施設ではないかとも見られています。
この写真は焼土土坑と呼ばれる穴で、燃やした痕跡が認められます。
狼煙をあげる風景
狼煙をあげる風景|写真 このように山上にある城から立ち昇る煙は遠くからでもよく見ることができます。