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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

7.コラム:科学の目

中世の人々は、どのような自然環境のなかで暮らし、どのように自然と接し、どんな食物を食べていたのでしょうか。花粉や昆虫、またトイレの研究からたどってみます。

花粉

 野に咲く花も、歴史を知る大きな手掛かりです。地層に埋まっている花の花粉を調べることを「花粉分析」といいますが、これを通して小さな花粉が当時の環境や植生をわたしたちに語りかけてくれます。
 さて中世以降、関東地方では、マツ属が増加したことなどがわかります。これは畑作の増加にともなって、肥料として山野・丘陵の草木の灰の利用が盛んに行われ、常緑樹などが伐採されました。そのあとにマツ属が増えていったと考えられます。

  • スギ属の花粉|写真 スギ属の花粉「花粉」というとすぐに思い浮かぶのは、春先のアレルギーを起こすスギ花粉という人が多いでしょう。
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  • マツ属の花粉|写真マツ属の花粉花粉化石は、現生植物と比較してそれが何の植物であるかを決めていきます。ただし、花粉分析では「属」までしかわかりません。例えばマツ属の花粉から、「アカマツ」などの「種」は特定できないのです。
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主な花粉の時代別の変化
主な花粉の時代別の変化|表
このグラフは埼玉県さいたま市大久保条里遺跡の結果をもとに作成したものです。中世のマツ属の著しい増加を見ることができます。ただ、例えば中世の畑作作物(アブラナ、綿花など)は、昆虫が花粉を運ぶ虫媒花で、花粉の量が少なく、花粉分析には適さないこともわかります。

昆虫

 虫たちもまた、わたしたちの暮らしと密接に結びついています。遺跡で発見される昆虫遺体(縄文時代以前は昆虫化石)を研究すると、昔の環境や気候変化だけでなく、その時代の土地の開発状況もうかがうことができます。つまり、農作物の害虫が検出できれば、当時、水田耕作や畑作が行われていた可能性が高いというわけです。

方法

 昆虫は、蟹(かに)の甲らのように堅いキチン質で覆われており、多くの場合、泥炭層や低湿地から検出されています。
 各地層ごとにみつけられた、昆虫遺体は、顕微鏡で現生標本と比較されます。各層の年代は、花粉分析と同様、放射性炭素や火山灰による年代測定法、また、それまでの考古学研究の成果などを利用して決定されていきます。

わかったこと

 弥生時代以来の稲作の害虫としては、イネネクイハムシがあげられます。中世において丘陵の開発および、畑作が盛んに行われていたことを端的に示す害虫としては、ヒメコガネ、ドウガネブイブイなどがあります。
 愛知県春日井市松河戸遺跡の昆虫分析の結果をみると、鎌倉時代以降、コガネムシの一種のヒメコガネやドウガネブイブイなどの畑作作物の害虫が大量発生したことがわかります。こうしたことから、畑作が飛躍的に増大した「大開墾時代の中世」の姿を浮かびあがらせることができます。

  • イネネクイハムシ|写真1 イネネクイハムシ(現生)
  • イネネクイハムシ|写真2 イネネクイハムシ(静岡県池ヶ谷遺跡出土・森勇一氏提供)
  • ヒメコガネ|写真1 ヒメコガネ(現生)
    愛知県一宮市大毛沖遺跡では中世に大量に捕獲、投棄されたヒメコガネがダンゴ状となってみつかっています。このヒメコガネは、広葉樹および畑作植物、特に豆類を好むコガネムシの一種です。当時の人たちも害虫退治に頭を悩ませていた様子がわかります。
  • ヒメコガネ|写真2 ヒメコガネ(名古屋市若葉通遺跡出土・森勇一氏提供)
農作物害虫の出現状況
農作物害虫の出現状況|表
「愛知県松河戸遺跡出土の昆虫化石時代別出現率」をもとに作成したものです。中世になると急にこうした畑作物の害虫が増えていることがわかります。

トイレの考古学

 中世では、下肥(しもごえ)は農業にとって豊かな実りを約束する重要な肥料でしたが、こればかりでなくトイレを研究すると、当時の人々が何を食べていたのか、また発見される寄生虫によって病気や生活環境まで解き明かしていくことができます。

トイレの形式

 トイレの形式としては、水洗式と汲取式があります。人糞尿を下肥として使った可能性のあるトイレは、土坑型汲取式のトイレです。  下肥に利用されたことが推定できる例は、十二世紀中葉の奥州藤原氏の居館である岩手県平泉の柳之御所(やなぎのごしょ)跡の土坑型汲取式トイレ、および伽羅御所(からごしょ)の同一型式のトイレです。当時は紙の代わりに籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる木の棒切れを使用していたようですが、下肥として撒くときには邪魔になります。そこで使用時には便槽内に捨てずに、後でまとめて廃棄していたようです。

わかったこと

 柳之御所、伽羅御所などのトイレの分析によると大量にみつかった寄生虫卵などから、当時の人々の食生活や衛生状態がわかります。

中世の水洗式トイレ・鎌倉市北条小町邸の水洗式トイレとその復元イラスト
鎌倉市北条小町邸の水洗式トイレ|写真復元イラスト
(鎌倉市教育委員会提供)
水洗トイレの歴史は古く、すでに奈良県の3世紀代の遺跡からその可能性のある遺構が発見されています。古代においても藤原・奈良の都では、溝をまたいで用を足す、厠風の水洗式が考えられています。
鎌倉市政所跡の土坑型汲取式トイレとその復元イラスト
鎌倉市政所跡の土坑型汲取式トイレ|写真 復元イラスト
(鎌倉市教育委員会提供)
踏み板やウリ、ナスの種子が発見されています。また、13世紀の鎌倉では、水洗式のトイレで籌木が多量に発見されています。しかし図の土坑型からは、籌木が発見されていないことから、下肥として利用していたことがわかります。
岩手県柳之御所跡の土坑型汲取式トイレとみられる遺構
岩手県柳之御所跡の土坑型汲取式トイレとみられる遺構|写真 (平泉町教育委員会提供)
土層断面下層から籌木がまとまって出土しています。
土坑型汲取式トイレの完掘状況
土坑型汲取式トイレの完掘状況|写真 (平泉町教育委員会提供)
岩手県柳之御所跡出土の籌木
岩手県柳之御所跡出土の籌木|写真
(平泉町教育委員会提供)拡大写真
紙の代わりに使用していた木の棒切れのことで、まとめて廃棄されていたことから、人糞尿は下肥として利用されたことが推定できます。
復元された石組桝形汲取式トイレ
復元された石組桝形汲取式トイレ|写真 (一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)
(福井県福井市一乗谷朝倉氏遺跡)
下肥をリサイクルシステムとして確実に利用するようになったのは、戦国時代の頃です。一乗谷朝倉氏遺跡では、大形正方形の便槽をもつ石組桝形汲取式トイレがみつかっています。踏み板は取り外しができることから、江戸時代と同様に、周辺の農民が集めにやって来て、代金として農作物等を払ったのでしょう。
金隠し
金隠し|写真 (一乗谷朝倉氏遺跡出土・一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)
たくさん発掘された石組桝形遺構が、トイレとわかるまで、この金隠しの出土をまたねばならず、約13年かかったといいます。
拡大写真
寄生虫卵
寄生虫卵の写真|1回虫卵 2鞭虫卵 3肝吸虫卵 4横川吸虫卵 5日本海裂頭条虫卵 6トビウオの吸虫卵 (金原正明氏提供)
回虫卵、鞭虫卵の検出により、野菜や野草を十分に加熱せず食べていたことがわかります。また、肝吸虫卵、横川吸虫卵を検出したことから、コイ科やアユのような淡水魚を生で、あるいは不十分な加熱のまま食べていたこともわかります。さらに、日本海裂頭条虫卵(サナダムシ)の検出例の多さからサケ、マスをルイベや生干、不十分な加熱で食べていたことなども推定できます。トビウオもトビウオの吸虫卵がみつかっていることから、食べられていたことがわかります。
出土遺跡/【1】【2】【3】柳之御所跡 【4】【6】松江城遺跡 【5】柳之御所跡
種子
種子の写真|ウリ ナス キイチゴ シソ エゴマ マタタビ属 ヒユ属 アカザ属
(金原正明氏提供/シソ・奈良国立文化財研究所提供)
また、この他にもコメ、ウリ、ナス、キイチゴ、シソ、マタタビ属など人間が消化できなかった多くの種子がみつかっています。さらに、寄生虫から腹痛を起こす人が多かったとみられ、平安時代の医学書に記載されている、虫下しの薬として使用したとみられるヒユ属、アカザ属も大量に見つかっています。
出土遺跡/柳之御所跡 シソ・藤原京遺跡