嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
人々のくらし中世の衣食住
遺跡には当時の人々の営みがぎっしりと詰まっています。 しかし遺跡自体はとても無口で発掘調査によってこちらから問いかけないとなかなか重い口を開いてくれません。
1.住
中世資料から見る庶民の暮らし
嵐山町では行司免遺跡・金平遺跡・山根遺跡などをはじめ多くの中世の遺跡が発掘調査され、当時の人々のくらしが次第に解き明かされつつあります。ここでは全国の発掘調査の成果や絵画としてのこされている絵巻物なども取り入れ、当時の嵐山町の中世の人々・特に庶民のくらしがどのようなものだったのかを覗いてみることにしましょう。
今までの発掘調査で検出された遺構から中世の庶民の住まいは掘立柱建物や竪穴状遺構のような建物であったことがわかります。
- 行司免遺跡の復元イラスト
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(画 中里美智子)
鎌倉時代から室町時代ころにかけて営まれた集落の様子。単なる集落だけでなく鎌倉街道と都幾川が交わる交通・流通の要地で周辺には菅谷館や大蔵館があり、当時は物と人とが集まり賑わっていたのでしょう。 - 掘立柱建物/国宝
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『一遍聖絵』(清浄光寺提供)
地面に穴を掘って柱をたてた掘立柱建物。この建物の家は店のようで、品物を置いた棚があり、その奥に土間が見えます。 - 行司免遺跡の小柱穴群
- 行司免遺跡の掘立柱建物跡
- 一見ごちゃごちゃと不規則にあいているように見える柱の穴もよくみてみると規則正しくならんで1軒の建物跡だとわかります。掘立柱建物は地面に掘った穴に柱をたて、板などで壁を囲み、屋根は板葺きか草葺きの簡易なものでした。
- 行司免遺跡の竪穴状遺構
- 竪穴状遺構は半地下式建物で掘立柱建物とならび中世では一般的なものです。その用途については、住居とする説のほか倉庫や作業場ではなかったかなどといわれています。貴族や武士層などが立派な木造建築の建物に住むようになっても、一般庶民はこのような半地下式の建物でくらしていたのでしょうか。
- 絵巻物に見える竪穴状遺構/国宝
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『粉河寺縁起』(和歌山県那賀郡粉河町粉河寺蔵)
半地下式の建物の入口からこの家の住人が上半身を乗り出して外を眺めています。入口の上には魔除けのための的が描かれています。竪穴状遺構とはこのような建物であったと考えられます。