ページの先頭

嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.くらし・衣・装い

意外に充実?

 嵐山町の中世の遺跡からは、掘立柱建物や竪穴状遺構のほかにも井戸や、塀の柵列や溝、鍛冶の痕跡なども見つかっています。

行司免遺跡の溝跡と柱穴群
行司免遺跡の溝跡と柱穴群|写真 掘立柱建物の柱穴群の外側に溝がめぐっています。こうした溝は排水施設であるとともに生活空間を区画するものでした。
溝と塀で区画される生活空間/国宝
一遍聖絵|写真
『一遍聖絵』(画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
この絵巻物では掘立柱建物の外側に沿って板塀と溝がつくられています。

ムラの鍛冶屋

 行司免遺跡や遠道遺跡では小鍛冶が行われる際にできる鉄滓が出土しています。小鍛冶の炉跡はみつかっていませんが、庶民のくらしにも日常的に鉄が使われていたといえるでしょう。

行司免遺跡出土の鉄滓
行司免遺跡出土の鉄滓|写真 鍛冶を行ったときに鍛冶炉の底に不純物がたまったもので、炉底の形のまま底が丸く椀形滓といわれるものです。集落のなかに鍛冶の工房があり、日常の生活に使われる鎌や鍬、小刀などがつくられたり修理されたのでしょう。
小鍛冶の仕事場の風景
東北院職人歌合絵|写真 『東北院職人歌合絵』(国立歴史民俗博物館所蔵)
焼けた鉄を金鋏ではさみ金床のうえで打っています。奥には箱ふいごが、手前には炭俵もみえます。

井戸の役割

 生活に不可欠な水を確保するために井戸が掘られました。井戸は集落の共有物であり、そのまわりでは当時も女性がにぎやかに井戸端会議をしていたことでしょう。

行司免遺跡の井戸跡/町指定史跡
行司免遺跡の井戸跡|写真 この写真の井戸は行司免集落の中心部に位置し、石できれいに組まれていて、約700年たった今も当時のままの姿をみせています。
井戸の底の木枠
井戸の底の木枠|写真 (行司免遺跡)
井戸の底は岩盤まで掘られ、木枠を四角に組み、その上から石を積み上げています。井戸が使われなくなった後も水は湧き出ていたため木枠は腐らずに現在も石組みを支えています。
井戸端の風景
『融通念仏縁起』|写真
『融通念仏縁起』/国重要文化財(清凉寺蔵、画像提供:東京国立博物館 Imagege:TNM Image Archives)
室町時代の井戸端の風景。長屋風の建物のはずれに井戸があり、母子が水を汲んでいます。建物と井戸の前には僧侶や旅人が行き交っています。当時の行司免集落でもこのような風景がみられたのでしょうか。

中世のおしゃれって?

 衣類などの繊維類は土器や石器と違い、出土することはほとんどありませんが、絵巻物などから想像することはできます。中世の衣料は麻がほとんどで、木綿が登場するのは中世後半の15・16世紀のことです。絹は古代からありましたが、貴族など上流階級の人々が使う高級品でした。

花見堂遺跡出土の和鏡
花見堂遺跡出土の和鏡|写真 拡大写真
大字川島の花御堂遺跡からも2枚の和鏡が出土しています。【1】は直径約11cmで、竹の葉と二羽の雀が描かれた竹葉双雀文鏡(ちくようそうじゃくもんきょう)、【2】は直径7.8cmで、菊花と亀甲文に雀が二羽飛んでいる菊花亀甲双雀文鏡(きっかきっこうそうじゃくもんきょう)です。
鏡台と硯箱
春日権現験記絵|写真 『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』(宮内庁三の丸尚蔵館提供)

権威の象徴から化粧用具へ

 古代には権威の象徴とされた鏡は、平安時代ころになると御正体(みしょうたい)(御神体〈ごしんたい〉)となったり経塚に埋められるなど信仰の対象となっていきます。さらに平安時代の後半になって次第に姿を写す実用品として使われるようになりました。
 鏡のかたちは鎌倉時代ころまでは円形で背面の中央に紐を通す突起がついていましたが、室町時代ころになると手に持つ柄の部分がつけられた柄鏡が登場します。背面は鳥や草花、幾何学文様などで飾られています。

一乗谷朝倉氏遺跡出土の化粧道具
一乗谷朝倉氏遺跡出土の化粧道具|写真 (福井県福井市福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館蔵)
和鏡のほか櫛・こうがい・毛抜・紅皿・お歯黒皿などが出土しています。
行司免遺跡の和鏡/町指定文化財
行司免遺跡の和鏡|写真 行司免遺跡からは4枚の和鏡が出土しましたが、うち上の2枚【1】【2】は副葬品として墓坑から出土しました。【1】は直径11.2cmで菊花と二羽の雀を描いた菊花双雀文鏡、【2】は直径10.7cmで秋草と二羽の雀を描いた秋草(あきくさ)双雀文鏡です。
拡大写真