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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

鋳物師のムラ 金平遺跡

700年前のむかし、風のように訪れ、風のように去っていった人びとがこの地にはいました。
鋳物師と呼ばれた彼らは中世の時代を自在に駈けめぐった当時の最先端技術者の集団でした。

1.よみがえる鎌倉時代の鋳物工場

七堂伽藍(しちどうがらん)と多くの僧坊を抱えた大寺院平沢寺を望む遺跡。

鋳物師図
東北院職人歌合絵|写真 『東北院職人歌合絵』(国立歴史民俗博物館所蔵)

700年前の鋳物師(いもじ)のムラ

 志賀の金平(かなひら)遺跡は、今から約700年前、鎌倉時代後半の鋳物(いもの)工場と、鋳造を行った職人たちの生活の跡と考えられます。
 遺跡は丘陵東端の緩やかな斜面上にあります。すぐ東側には当時軍事・流通などいろいろな面で重要な道であった鎌倉街道上道(かみつみち)が南東から北西に走り、西方には七堂伽藍とたくさんの僧坊を抱えていた平沢寺の広大な寺域がひろがっていました。
 金平遺跡の鋳物工場では、仏像や梵鐘など寺社で使われる仏具の鋳物が主につくられましたが、操業期間は非常に短く、その意味では特殊な遺跡といえます。

東方上空からみた金平遺跡全景
東方上空からみた金平遺跡全景|写真
鎌倉時代の金平遺跡周辺復元イラスト
鎌倉時代の金平遺跡周辺復元イラスト
(画 中里美智子)
手前には人馬が行き交う鎌倉街道が通り、奥には平沢寺の寺域が広がっています。また丘陵の山合いからは炭焼きの煙が立ち昇っています。
発掘調査風景
発掘調査風景|写真1発掘調査風景|写真2
金平遺跡からは土器や鋳型の破片のほか鉄や銅を溶かした際にできる(かなくそ)と呼ばれる鉱滓(こうさい)がコンテナ4000箱分も出土しました。