嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
4.コラム:遍歴する中世の職能民・鋳物師
彼らは全国を渡り歩く自由な職業集団でした。
鎌倉時代ごろに活動した鋳物師たちのうち河内(かわち)国(大阪府)を本拠地としていた河内鋳物師は、天皇と結びつき燈炉供御人(とうろくごにん)という地位を得ることによって全国を自由に往来して生産・売買できるという特権を与えられていました。彼らは高い水準の技術を持っていたということもあって、当時の鋳物産業の中心的役割を果たしました。
河内からきた鋳物師
武蔵国にも在地の鋳物師はいましたが、梵鐘などの大形品の製作活動は行っていなかったようです。ところが、幕府が鎌倉に開かれ、関東が政治の中心地となると、幕府や武士層と仏教勢力との結び付きによって多くの寺社が造営されていきます。とりわけ鎌倉・長谷の大仏が造立されることになると物部(もののべ)・丹治(たんじ)・広階(ひろしな)姓などの高い技術を持つ河内鋳物師がこの東国に招かれました。この時彼らの遺した梵鐘や鰐口などの仏具製品は関東一円にひろがっています。大仏の完成後には本拠地の河内国に帰って行くものたちもありましたが、一部の鋳物師は東国に残り、この地に根を降ろしていくことになります。
- 大仏鋳造の様子
-
『東大寺大仏縁起絵巻』(東大寺蔵・植田英介氏提供) - 慈光寺梵鐘/埼玉県指定文化財
-
ときがわ町慈光寺にあります。
「寛元三(1245)年」の銘文に大工物部重光の名前が見えます。物部重光は、鎌倉建長寺の梵鐘も製作しています。 - 養寿院梵鐘/埼玉県指定文化財
-
(埼玉県立博物館提供)
川越市にあります。「文応元(1260)年」の銘文に鋳師丹治久友(ちゅうしたんじひさとも)の名前が見えます。丹治久友は東大寺鋳物師・鎌倉新大仏鋳物師として名前が残っています。 - 鎌倉 長谷の大仏/国宝
-
(鎌倉市高徳院蔵・鎌倉市教育委員会提供)
僧浄光の勧進により建立された阿弥陀如来座像で、はっきりとした年は不明ですが鎌倉時代前半の1240年前後から10数年かけて鎌倉に招かれた河内鋳物師たちによって製作されました。 拡大写真
埼玉県内の中世鋳物師
鎌倉時代をはじめ中世において埼玉県内では多くの鋳物師たちが活動していました。このうち入西(にっさい)鋳物師(いもじ)の拠点・坂戸市の金井遺跡は鎌倉時代後半(十三世紀後半)から南北朝時代(十四世紀前半)にかけて継続的に営まれた大規模な鋳物工場でした。ここでつくられた製品は仏具のほか、鍋や犂(すき)先などの日常生活用品まで幅広いものでしたが、製品の特徴などから河内鋳物師の物部氏の系譜を引く鋳物師の本拠地だったと考えられています。金平遺跡はこの金井遺跡と同時期に操業していますが、金井遺跡のように継続性のある拠点的な工房ではなく、寺社に仏具を供給することを主な目的とし、極めて短期間だけ操業された典型的な「出吹き(でぶき)」工房であったと考えられます。
- 埼玉県内の中世鋳物師
- 埼玉県内の中世鋳物師は、東松山市小代、坂戸市入西(金井遺跡)、鳩山町小用、本庄市児玉町金屋、寄居町塚田、狭山市柏原、さいたま市岩槻区渋江、そして嵐山町の金平遺跡で鋳造を行った鋳物師です。個々の鋳物師が活動していた時期は13世紀から17世紀と幅が広く、全てが同時期に操業していたわけではありませんが、その位置と立地をみると県内を通っていた主要街道、特に鎌倉街道上道に沿っており、また主要な河川が街道と交わる地域の周辺に位置していることがわかります。
- 金井遺跡全景
-
(埼玉県立埋蔵文化財センター提供)
継続的に営まれた金井遺跡の工房は広く、何群かに分かれており、それぞれで製作する製品も異なっていたようです。