嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
7.コラム:弘安四年と蒙古襲来
弘安四年とは
この鋳型は口径80センチほどの寺社で使われる湯釜(ゆがま)か仏餉鉢(ぶっしょうばち)と思われる鋳型で、その口縁部分に横向きで文字が彫り込まれています。文字は鋳型なので左右反対に
「 □友弘安二二 」とあります。弘安二二は「弘安四年(1281)」を意味していて、この鋳型によって金平遺跡の鋳物工場の操業時期が明らかとなりました。
この年は二度目の元寇(げんこう)(蒙古襲来〈もうこしゅうらい〉)・「弘安の役(こうあんのえき)」があった年です。当時、元寇は日本中を揺るがした大事件。朝廷や幕府は異国降伏(いこくこうふく)の加治(かじ)祈祷(きとう)を全国の寺社に行わせています。金平遺跡で行われた仏具の鋳造もこうしたことと関連があったのかもしれません。
蒙古襲来
モンゴル帝国はチンギス=ハーンによる1206年の建国以来次々と領土を拡大し、1270年高麗(こうらい)を侵略後、その標的を日本にも向けました。すでに高麗侵略以前からモンゴルは「国書(こくしょ)」を日本に送り従属を求めてきていたため、その脅威は国家的大事件でした。朝廷や幕府は蒙古襲来に備え、九州に領地を持つ東国の御家人を現地に移し、地元の御家人とともに海岸線の警護にあて、防塁を築かせたりしました。その当時、蒙古襲来は異神(いしん)と我神(がしん)の「神戦(しんせん)」で、加治祈祷は単なる心の支えではなく、現実的な政策で、軍事的にも重要な意味があったのです。
二度の襲来
最初の襲来「文永の役」は、1274(文永10)年に起こりました。2万以上のモンゴル軍は壱岐・対馬を侵略後、博多に上陸し戦果をあげたのち引き上げて行きました。この一回目の襲来は実は警告だったとされています。
そして、二度目の襲来「弘安の役」は1281(弘安4)年に起こりモンゴル軍は14万の大軍で日本に押し寄せました。この戦いは、台風によるモンゴル軍の難破ということであっけなく幕が降ろされました。