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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.嵐山町になぜ鋳物工場が

鋳造工場の適地は様々な要素が必要です。

当時の最先端技術工場

 鋳造という技術は、鋳型(いがた)の製作・鉄や銅の溶解・鋳型に溶けた鉄や銅を流し込む鋳込みなどから成っていますが、どの工程も高い技量と知識が要求されました。鋳型の製作一つとっても梵鐘から飾り金具など大小様々な製品の鋳型をつくらなければなりません。製品によっては細かな文様も求められています。これらに応えていくことは容易なことではありません。そのため、鋳造を行う人々は鋳物(いも)師(じ)と呼ばれ当時の最先端技術を持った職人集団でした。

たたら(ふいご)を踏む様子
『日本山海名物図絵』|写真 『日本山海名物図絵』
(国立公文書館内閣文庫蔵)
中世の金平遺跡関連年表
世の金平遺跡関連年表

鎌倉時代の金平遺跡周辺のようす

 金平遺跡でつくられた鋳物製品は、主に仏具でした。その供給先は平沢寺であったと考えられます。金平遺跡は製品の搬出にも適した平沢寺の寺域内か寺域に接する位置にあったと思われます。また、遺跡の東側には鎌倉街道上道が通っていて、鉄や銅・炭など物資の調達にも適しています。さらに遺跡の地表面下には良質の粘土層が広がり、溶解炉(ようかいろ)や鋳型の製作に必要な粘土が容易に採取できます。加えて冬場の乾燥した時期には、丘陵から強風が吹抜ける鋳造に適した場所でした。
 このように金平遺跡は、鋳造に求められる様々な要素・条件を充分満たした場所として選ばれたと考えられます。

鎌倉街道上道
笛吹峠|写真 将軍沢の笛吹峠を鎌倉街道上道が通っていました。鳩山町方面からこの峠を越えると行司免遺跡・大蔵宿はもう目の前です。
鎌倉街道復元イラスト
鎌倉街道復元イラスト (画 田畑修)
当時はこのように人馬が行き交っていたのでしょう。
鋳物師の仕事場/国重要文化財
『歓喜天霊験記絵巻』|写真 『歓喜天霊験記絵巻』(鋳物師図 武藤治太氏蔵・東京国立文化財研究所提供)
鋳物師が作業しているそばには梵鐘が出来あがっていて、まわりには注文主の僧侶たちが見守っています。