嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
中世の市場か 行事免遺跡
菅谷館と大蔵館が周囲にあり、鎌倉街道と都幾川に面し、それぞれが交わる場所に行司免遺跡はあります。
この集落は市場のように人びとが集い、にぎわっていたと考えられます。
1.館・街道・川
行司免遺跡は、市場だった?
遠くからもたらされた たくさんの出土品
行司免遺跡は平安時代の終わりころから鎌倉時代、南北朝・室町時代にかけて営まれた東西350メートル、南北200メートルほどの大きな集落跡です。遺跡の中は溝で区画され、多くの建物跡や井戸跡、墓坑(ぼこう)などが見つかっています。遺物も中国や東海地方から運ばれた陶磁器や和鏡などがたくさん出土しました。
遺跡は都幾川の河岸段丘上にあって、鎌倉街道上道(かみつみち)(陸路)と都幾川(水路)が交わる場所にあることから、単なる普通の集落ではなく、“市場”のような機能も持った集落ではなかったのかと考えられます。
- 行司免遺跡遠景
- 行司免遺跡全景
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遺跡には、縄文時代、古墳時代にも大きな集落がつくられていました。ここは古くから人々の生活に適した場所だったのでしょう。 - 発掘調査風景
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発掘調査は1983〜1987年にかけて行われ、約50,000m²が調査されました。 - 雪の行司免遺跡
- 行司免遺跡の中世遺構群全体図
- 遺跡は北から東にかけては河岸段丘の崖部に、西から南にかけては溝によって区画されています。中央北側の区画は、井戸のまわりに建物が密集しています。溝の外側の遺構がない部分は畑だったのかも知れません。
復元イラスト行司免遺跡周辺
- 行司免遺跡周辺の復元イラスト
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(画 中里美智子)
北側・菅谷館方面から行司免遺跡、笛吹峠方面をみたところです。 - 都幾川を遡れば篩新田(ふるいしんでん)のムラや慈光寺(ときがわ町)に、鎌倉街道上道を下れば金平の鋳物師のムラや平沢寺方面へとつながります。こうした周囲のムラや寺院とは物資・文化両面を通じて強い関連があったと思われます。
- 集落の北側、都幾川左岸には畠山重忠の居館・菅谷館が、集落の周囲には大蔵宿、大蔵館、宮ノ裏の寺院があり、単に「人と物」だけでなく、「権力と文化」の集まる所でもありました。
- 東国の政治・文化の中心地鎌倉から続く軍事・経済の主要道路鎌倉街道上道が笛吹峠を越え、大蔵宿を抜けて菅谷の台地へと向かい、内海(東京湾)からさかのぼってきた都幾川の水路には小舟により物資が運ばれています。