嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
2.物と人の流れ
丘陵と平野が、街道と川が出会う交差点。
鎌倉方面から嵐山への交通路は?
当時の東日本で政治・文化の中心だった鎌倉方面から嵐山町に物資が運ばれるにはどのようなルートがあったのでしょうか。
陸路は鎌倉街道上道が鎌倉から府中市・東村山市・所沢市・日高市・鶴ケ島市・坂戸市・毛呂山町・鳩山町と進み、笛吹峠から嵐山町に入り、小川町へと続き、荒川を渡った後、群馬県藤岡市方面へと向っていました。
水路は、鎌倉のある相模湾を越え東京湾に入り、入間川をのぼり、船を小さくしながら都幾川に入り、行司免遺跡周辺までのルートがあったと考えられます。
- 水運と市場マップ
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(『常滑焼と中世社会』綿貫友子 原図を加工)
大陸や西日本・東海地方からの陶磁器などの物資や文化は、陸路では鎌倉から鎌倉街道上道により、水路では相模湾から内海(東京湾)に入り、入間川を上り都幾川に入って、嵐山町方面の内陸部に運ばれたと思われます。
陸の道と川の道の交わるところ
まず陸路に注目してみると、行司免遺跡のある大蔵周辺には、鎌倉街道上道に沿って菅谷館跡、大蔵館跡、山王遺跡、上石堂遺跡、坊ノ上遺跡、宮ノ裏遺跡など古代末から中世にかけての遺跡が集まっています。水路に目を転じると、行司免遺跡は都幾川に面しています。ちょうどこのあたりは秩父山地から続く比企丘陵が台地・河岸段丘へと開け、さらに平野部へと拡がっていき、川の流れの緩やかになっていくところです。
たくさんの遺物や建物の跡、そして交通の要としての位置などを考え合わせると、行司免遺跡は、人や物の集まる集積所として市のような性格もあったと考えてよいようです。
集落? 市場?
中世の市場は、世俗の権力の及ばない聖なる空間としてムラはずれや河川敷、墓地などがあるような場所に開かれ、市のたたない時は人の姿が見えないようなさみしい場所だったといわれています。絵巻物などをみても住居ではない簡易な小建物が並んで、市のたっている時は大勢の人で賑わっていますが、市のたっていない時は人々の姿は見えず、僧侶の姿などがあるだけです。これに反して、行司免遺跡は、居住施設としての掘立柱建物跡も検出されています。ですからいわゆる市場ではなく、集落のなかに市場的なものが混在するような遺跡だったのでしょう。
- 備前国(岡山県)福岡市(ふくおかのいち)のようす/国宝
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『一遍聖絵』(神奈川県藤沢市清浄光寺提供)
壁のない簡易な掘立柱建物が並び、米や魚・布・甕などいろいろな品物が売られ大勢の人で賑わっています。手前には小さな舟が泊められ、すぐ近くの小屋のなかには陸揚げされたものか大甕がならべられています。 - 信濃国(長野県)伴野市(ともののいち)のようす/国宝
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『一遍聖絵』(神奈川県藤沢市清浄光寺提供)
市のたっていない日の市場。品物も売り人もいない閑散としたなかで旅の僧たちが休んでいます。 - 水運のようす/国宝
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『一遍聖絵』(神奈川県藤沢市清浄光寺提供)
海上での舟は大きなもので大量の物資を運びましたが、河川による運送には川の幅や深さにあわせて中小の舟が使われました。 - 陸運のようす
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『京洛月次風俗扇面流図屏風』(京都市下京区光圓寺蔵・京都国立博物館写真提供)
陸路の運送には主に馬や荷車が使われていました。