嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
3.出土遺物からみえる物の流れ
遠く中国や九州・東海地方から運ばれてきているものがあります。
こうした物はどのように運ばれたのでしょうか。
道は東シナ海を走る「海上の道」
行司免遺跡からは目を見張るほど大量の、国内外の陶磁器が出土しています。中でも中国の龍泉窯で焼かれた青磁の製品は注目してよいでしょう。
中世に入る以前から遠く中国陶磁器の優品は高級品として、またステータスシンボルとして求められていました。そして鎌倉時代から室町時代に日宋貿易や日明貿易が盛んになるにつれ、大量の中国陶磁器が日本国内、それも全国的に流通し、上流階級だけでなく、庶民の生活のなかにも浸透していくことになります。これら中国陶磁器は大型船によって東シナ海の海上の道を渡って運ばれ、北九州・博多から京・鎌倉などの政治・文化の中心地を経由・通過し、この行司免集落にまでも運ばれたと考えられます。嵐山町で発掘調査された中世遺跡からは、小さな破片がほとんどですが、必ずといっていいほど中国陶磁器が出土しています。もちろん、京や鎌倉、太宰府(だざいふ)などにくらべると質・量ともに格差があります。出土した製品の種類をみても青磁の椀がほとんどで、それ以外では梅瓶(めいぴん)や酒会壷(しゅかいこ)などがわずかにあるだけで種類は少ないです。しかし、県内に例を見ない大量の陶磁器の出土は、こうした国内外の製品、言い換えれば文化を引き寄せるだけのにぎわいが嵐山町にはあったことを裏付けているといえるかも知れません。
- 海のシルクロード
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(出光美術館 原図を加工)
単に中国から日本にというだけでなく、東南アジア・西アジアをも含め、様々な国の様々な物・文化が広い流通圏にまたがるルートで日本に運ばれてきました。 - 韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
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(河田貞氏提供)
大量の中国陶磁器や約800万枚にも及ぶ銅銭などが発見されました。積荷の荷札から中国から日本に向う途中で沈没したようです。 - 行司免遺跡出土の青磁
- 中国淅江省の龍泉窯でつくられたもので、右上端が酒会壷と呼ばれる壷の破片、その他は蓮(はす)の花びらをあしらった文様(蓮弁文〈れんべんもん〉)の椀です。
- 舶来青磁/右・鎌倉市指定文化財
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(左・京都市埋蔵文化財研究所、右・別願寺蔵・鎌倉国宝館提供)
中国龍泉窯産の青磁。左が蓮弁文椀、右は縞(しのぎ)文酒会壷。
道は都幾川をのぼる「川の道」
中世になると日本各地の特産品が商品として全国各地に流通するようになってきます。これにともなって、本来年貢などを運ぶために整備されてきた陸路・水路も、商品を運ぶ「道」として利用されるようになってきます。とりわけ海や川を利用し、一度に大量の商品を運ぶことのできる舟運の果たした役割は大きかったでしょう。
国内産の陶器は、東海から近畿、瀬戸内でつくられたものが多いのですが、行司免遺跡を含む鎌倉時代の東日本ではほとんどが東海地方の常滑・渥美でつくられた陶器を使っていたようです。こうした陶器が、ここ行司免遺跡まで運ばれてきた経路は、生産地から、まず伊勢の大湊(おおみなと)へ運ばれて、その後鎌倉を経由するか、もしくは直接東京湾に入り湾内の湊で小さな船に荷を移し、荒川から入間川を、そして都幾川を遡りこの行司免集落にもたらされたと考えられます。
- 常滑甕/常滑市指定文化財
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(愛知県常滑市立陶芸研究所提供)
13世紀後半の大甕で、焼き締めの赤褐色の肌に山吹色の灰釉が肩部から下半部に流下しています。 - 行司免遺跡出土の常滑甕の破片
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(嵐山町教育委員会蔵)
遺跡から出土する常滑焼はいずれも破片で完全な形で出土することはほとんどありません。 - 国内海上交通と陶磁器の流れ
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(『中世須恵器の研究』吉岡康暢 原図を加工)
東日本で広く流通していた常滑焼(とこなめやき)・渥美焼(あつみやき)の陶器は伊勢大湊から太平洋岸をとおり、東北地方まで流通していました。また大陸からの舶載陶磁器は博多を経由して全国各地に運ばれました。 - 行司免遺跡の井戸跡の中から出土した石鍋破片/町指定文化財
- 滑石製石鍋
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(広島県立歴史博物館提供)
滑石(かっせき)製石鍋は長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島が主な生産地で、おそらく海路によって東国まで運ばれ、陸路か水路によってはるばる行司免集落まで運ばれてきたのでしょう。