嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
再現 平沢寺
数々の諸記録とともに言い伝えられてきた七堂伽藍(しちどうがらん)の伝説。
広範囲に今も残る関連地名。
「まぼろしの大寺院平沢寺」のかつての姿を再現します。
1.初期平沢寺の姿
参道、本堂、方三間堂。東西に配置された寺院景観は、
当時、武蔵最大の勢力であった畠山氏にふさわしいものといえます。
初期平沢寺の企画と浄土庭園
12世紀末から13世紀初頭は、この寺の歴史の中でその概観が最も良くわかる時代です。田圃(たんぼ)の中に今も真っ直ぐ残る旧参道はこの寺の中心軸が東西であった事を知らせています。参道の西の先には現在の本堂、さらにその先には伝長者塚があって、新たに発見された方三間堂跡もほぼこのライン上に乗っています。
また諸記録は寺域に「池」や「大石」があったことも伝えています。「池」「大石」は、「浄土庭園」の存在を示唆するものです。浄土庭園とは、仏堂を中心に前面の園池、背後の山、この三者により極楽浄土を箱庭的に表現した庭園で、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)が有名です。しだいに東国にも波及し、有力な武士の間にも広まりました。
当時武蔵最大の勢力であった畠山氏にふさわしい寺院景観といえましょう。
- 平沢寺平面図
- 平沢寺の中心は丁度手のひらを広げたような谷津に位置します。東西に伸びる旧参道は最後に北へ折れています。この部分は明治の公図でも山林として谷津を遮るように描かれています。おそらくは中心伽藍の何らかの区画施設又は園池の堰堤だったと思われます。このように考えると平沢寺は参道、区画施設、中心伽藍の順で一直線に並んでいたと考えられます。そして中軸線はほぼ東を指し、その起点は伝長者塚あるいは現本堂でしょうか。
- 12世紀末頃の平沢寺
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(画 中里美智子)
この図は中心伽藍部分と浄土庭園にあたる園池を西側の山の中腹から見たところです。 - 永福寺(ようふくじ)復元図
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(鎌倉市教育委員会提供)
源頼朝が奥州合戦の戦没者をともらうために建立した浄土系寺院。二階堂を中心に両脇に阿弥陀堂、薬師堂を配しそれぞれを複廊で結び、さらに園池に向かって翼廊が伸びる大伽藍でした。畠山重忠は永福寺とゆかりがあって、後には奉行人としても深く関わりました。平沢寺同様、山を背景に東を向く構成をとっています。 - 白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)/国宝
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(いわき市教育委員会提供)
福島県いわき市に所在します。奥州藤原氏三代秀衡の妹が当地の岩城氏に嫁ぎ、夫の死後その菩提をともらうために建立したと伝えられています。主軸は南北方向で、北に経塚山が隣接し、借景となっています。堂は方三間堂で浄土庭園は発掘調査を経て優美な姿を現代に甦らせています。 - 称名寺(しょうみょうじ)/国指定史跡
- 横浜市金沢区にある北条一門の金沢氏の菩提寺です。浄土庭園を中心とし、山を背後に南面する構成をとった壮大な伽藍です。現在では、絵図と発掘調査に基づく整備が完了し、中世の浄土世界が華麗に再現されています。
- 毛越寺(もうつじ)/国指定特別史跡
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(毛越寺提供)
奥州藤原氏二代基衡が建立した岩手県平泉町所在の浄土系寺院です。翼廊を持つ2つの堂がかつて存在しました。北に隣接する堂山を借景に南を向く構成をとっています。発掘調査を経て園池が復元整備されています。