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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

鋳銅経筒

江戸時代の享保年間(1716〜1735)、
現在の平沢寺の裏山で鋳銅経筒(ちゅうどうきょうづつ)が発見されました。
それは後に空白の時代をうめる貴重な文化遺産の発見となりました。

1.秩父氏と畠山氏を結ぶ寺宝

空白の時代に明かりを灯す

 古代末期の嵐山町を含む埼玉県の姿は、長い間空白の時代とされてきました。平沢寺の寺宝として大切に保存されてきた小さな資料が、その空白に明かりを灯すことになります。経筒に刻まれた年号・1148(久安4)年は平沢寺の確認できる最古の歴史を伝えていますが、年号とともに刻まれた平朝臣茲縄(秩父重綱)の名は、嵐山町周辺がこの頃から武蔵の名門秩父氏の支配下に入っていたことを物語っています。嵐山町で活躍した重隆、重能そして重忠はいずれも秩父重綱に連なる一族であることを考え合わせると、川越氏の進出、大蔵の戦い、そして畠山氏の進出もスムーズに理解することができます。鋳銅経筒は、秩父氏と畠山氏を結ぶ貴重な寺宝といえるでしょう。

鋳銅経筒/埼玉県指定文化財
鋳銅経筒|写真 (平沢寺蔵)
高さ23.5cm、径12.6cmの円筒形をした経筒です。銘文は陰刻されています。
銘文
銘文 文意
沙門実与を勧進とし、久安4年2月29日に当国大主平茲縄とゆかりのものが施主となり、経筒を納めた。この志は、施主及びすべての者の平等利益の為に行うものである。経筒の製作者は藤原守道、安了(部)末恆、藤原助員である。
長者塚
長者塚|写真 現白山神社の裏にあります。現在、径約4m 、高さ1m 弱の大きさで、ちょうど皿を伏せたような形をしています。