嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
5.行司免ムラの変遷(9〜11期)
ムラの衰退
9・10期
家々の環状の配置が崩れはじめています。ムラの統制、結束の力が弱まったことを暗示しています。おそらくこの頃から気候の寒冷化が始まり、食糧の確保に支障が出てきたのかもしれません。
9期は、行司免ムラの繁栄の最後の段階です。この時期の住居には、南壁際に複数の埋甕をもつものが多くみられます。この甕は、生後間もなく死んだ新生児や、死産、流産の胎児を、強くなって再び生まれるよう願い埋葬した棺だとする説があります。仮にそうだとすると、生活が不安定になり、子供の死亡率が増加したという悲しい証拠の品です。実際はどうだったのか、遺跡は多くを語りませんが、ムラの人口が激減したのは明らかです。9期に28軒あった住居数は、10期には13軒と半分以下になります。住居の床面積も、9期にとても小さな家が増え、10期になると一気に小型化するのです。
- 9・10期の土器
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加曽利E式土器様式の後半、すなわち中期の終末期に相当します。集落の衰退期に同調するかのように、甲信地方の内陸部に展開した曽利式の影響も薄れていくのは、ムラの生産・流通などの基盤を同じくする両地域の社会背景を暗示するかのようでもあります。
最後の一軒
11期
家はとうとう、たった1軒になってしまいました。もうムラとは呼べません。
この住居には、考古学の時期区分では、中期が終わり、後期の最初の段階に属する土器がわずかに残されていました。縄文時代中期を象徴する環状集落は、やはり中期とともに消滅する運命を辿ったのです。住居の床面積は、4坪あまりでとても小さいものでした。石囲炉の脇に扁平な石を敷き並べた新しい施設が10期に1軒だけ登場し、同じスタイルが引き継がれています。そしてこの家の住人も、いつしか立ち去り、以後、縄文人がこの地に住まいを構えることはありませんでした。