嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
4.行司免ムラの変遷(4〜8期)
ムラの繁栄
4〜6期
4期約19軒、5期約18軒、6期約15軒でムラが構成されています。それまで開放していた北西側にも住居が建てられ、広場を家々が円形に取り囲む環状集落の形が完成しました。
家の平均面積は、6〜7坪と広くなりました。増改築を行ったと思しき家も登場します。住居の大型化は、1家族の人数の増加を意味します。ムラの環境が整い、生活が安定したことを物語ります。炉は、周囲に石を組む石囲炉と、その中央に土器を据える埋甕炉(まいようろ)が定着しました。この埋甕は、調理用の土器の底を割りとって転用しています。炉自体も大型化しました。食事時、大家族がにぎやかに炉端を囲む風景が目に浮かぶようです。
- 7・8期の住居・炉跡、埋甕、出土土器
-
このころから住居が大型化してきて、中央の炉も石を囲んだ大きな囲炉裏が現れるようになります。
埋甕は、家の出入口に嬰児の胎盤を納めて、子どもの健やかな成長を願うという各地の民俗例にも通じる風習ではないかと考えられています。
人々の交流
7・8期
7期約10軒、8期約38軒の住居が確認されています。8期は、古い住居に重なりあって新たに住居が建てられている例が大変多いのが特徴です。つまり、家の建て替えが頻繁に行われていたということです。あるいは、8期の実際の期間が他の時期より長かったのかもしれません。住居の平均面積は、約7、8坪と、さらに大型化しています。
この時期の土器は、現在の東京の多摩地域や信州地方の影響を強く受けています。遠いムラとの交流が盛んに行われていたことが、目新しい土器文様を取り込むという、流行の変化に端的に現れています。住居の入り口の床下に土器を埋める「埋甕(うめがめ)」の風習も、信州地方がルーツと見られます。