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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

2.復元・行司免遺跡

行司免遺跡再現図
行司免遺跡再現図(イラスト:田畑修) 最も栄えた頃のムラの様子を再現しています。海のムラからの丸木舟が着きました。広場ではさっそく特産品の交換が行われます。家々のまわりでは、食事の仕度もはじまりました。

行司免遺跡発掘調査|写真

狭いながらも楽しい我が家

竪穴住居の暮らし

 竪穴住居は、縄文時代を通じた(さらにいうなら平安時代まで続いた)日本の過去の伝統的な家の形です。
 行司免遺跡をはじめ、縄文時代中期の家は円形が主流です。地面を50センチメートルくらい掘った穴の底が床になります。4本から6本の柱で屋根を支えます。出入口は日が射し込む南向きに。中央には石を組んだ炉があります。夏は涼しく、冬暖かい家です。
 行司免遺跡の場合、床面積は11から53平方メートルほど。平均12、3畳といったところです。1軒には5人から、大きな家で8人くらいが暮していたと考えられます。中には、手狭になったのでしょうか、穴を掘り広げて増改築した家もありました。

集石土坑
集石土坑1|写真集石土坑2|写真
集石土坑3|写真
焼け礫を穴に詰め込んで肉などを蒸し焼きにする調理施設と考えられています。

竪穴住居跡
竪穴住居跡1|写真竪穴住居跡2|写真
居住は増築されたり、以前の住居の近くに建て替えが行われたりして、最終的には261カ所が発見されました。
長野県与助尾根遺跡の復元住居(国指定特別史跡)
長野県与助尾根遺跡の復元住居|写真 隣接する尖石遺跡とともに縄文時代中期の代表的な集落跡です。
岩手県御所野遺跡の復元住居(国指定史跡)
岩手県御所野遺跡の復元住居|写真 中期の焼失住居跡から柱の炭化材が多量に出土し、上屋の構造が分かりました。屋根は土葺きです。

広場とゴミ捨て場

 行司免のムラの中央広場は、径100メートルもある広い空間にも関わらず、ムラが続く間、家が建てられることはありませんでした。ムラ人共有の場という約束事が守られていたのです。広場には墓地があり、折々にはマツリも行われたことでしょう。神聖な領域であったと見ることもできます。
 ムラの西側と北には、浅い谷を利用したゴミ捨て場が決められていました。

土壙墓(どこうぼ)
土壙墓1|写真土壙墓2|写真
行司免遺跡では8カ所の墓穴が見つかりました。しかし住居跡の数に比べて極端に少なすぎます。骨の残りにくい土壌なので確かなことはわかりませんが、埋葬には住居跡の窪地を利用した廃屋墓と呼ばれるものも考えられます。

土器捨て場
土器捨て場1|写真土器捨て場2|写真
土器捨て場3|写真
ゴミ捨て場です。谷や斜面を利用した大規模なものと住居跡の窪地を利用したものがあります。