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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

6.中期の遺跡群

比企地域の中期遺跡分布図
比企地域の中期遺跡分布図

中核のムラ

行司免遺跡

 縄文時代中期は最も遺跡数が多い時期です。比企丘陵でも川に沿って連綿とムラが営まれています。ところが個々に調べると、長期間続いた大規模なムラは、現在のところ僅かに4か所しかないのです。中でも嵐山町の行司免遺跡は別格で、中期の中ごろから終末までずっと継続しました。特定のムラの繁栄には何か理由がありそうです。
 行司免ムラはちょうど平地の突きあたり、山地の入口に位置しています。山に住む人と海沿いの人がともに集まりやすい、便の良い道筋にあります。ムラは物資の集積所、輸送の中継基地のような性格だったのではないかと研究者は推測します。基地ならば数が少ない方がより多くの物が集まりますし、常に決まった場所になければ不便です。行司免ムラは荷を運び、必要な品を手に入れる人々の行きかう、地域の中核だったのではないでしょうか。

中郷

中郷(なかごう)遺跡航空写真(県立埋蔵文化財センター提供)
中郷遺跡航空写真|写真 嵐山町広野にあります。関越自動車道の建設に伴って調査が行われ、中期の住居跡7軒と土坑6基が検出されました。標高71〜74mの北側傾斜面に立地しています。
中郷遺跡の住居跡(県立埋蔵文化財センター提供)
中郷遺跡の住居跡1|写真 中郷遺跡の住居跡2|写真
中郷遺跡の住居跡3|写真 中郷遺跡の住居跡4|写真

この遺跡は加曽利E式の初期の短期間に営まれたものでした。

金平

金平遺跡7号住居跡と出土土器
金平遺跡7号住居跡|写真 金平出土土器|写真
加曽利E式の終末期に相当する1軒の住居跡が発見されました。

六丁遺跡遠景|写真
六丁(ろくちょう)遺跡遠景 嵐山町杉山にあります。粕川と市野川に挟まれた丘陵上に位置しています。役場新庁舎の建設に伴い発掘調査が行われ、縄文時代では中期後半の住居跡1軒が検出されました。

六丁

六丁遺跡1号住居跡
六丁遺跡1号住居跡1|写真六丁遺跡1号住居跡2|写真
六丁遺跡1号住居跡3|写真
丘陵が尾根状になる最も高い平坦部から1軒の住居が検出されました。
1号住居跡出土土器
1号住居跡出土土器1|写真 覆土から出土した土器で、底部を欠失していますが2個体が復元できました。

中小のムラ

 行司免ムラ以外の大半のムラは、どれも規模が小さく、存続した期間も短かったり断続的だったりします。その中には、季節的なムラや仮設のキャンプ地のような性格のものが多く見られるようになります。このようなムラの性格の違いは、縄文時代前期の段階ですでに現れています。中期になって大きなムラの環状集落の形態が確立すると、小さなムラとの違いはさらに鮮明になりました。
 大きなムラを通常の生活の拠点とし、周辺のいわば出先のムラで狩猟や採集の活動にいそしむ。研究を深めれば、こうした縄文人たちの行動の具体的なあり方も少しずつ明らかになっていくことでしょう。

神山

神山(かみやま)遺跡遠景
神山遺跡遠景|写真神山遺跡|写真
神山遺跡竪穴住居跡|写真
大字古里の丘陵最北端に位置し、標高約90mの小支丘上にあります。中期終末の竪穴住居跡1軒、焼土跡3か所、土坑10基、集石土坑1基、埋設土器9か所が検出されました。
神山遺跡出土土器
神山遺跡出土土器1|写真神山遺跡出土土器2|写真
神山遺跡出土土器3|写真
上の2個は1号住居跡、下は10号土坑から出土しました。加曽利E式土器です。