嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.祈りとマツリ
縄文人の日常
〈縄文時代〉というと、はるか昔のとても原始的な、といった響きがあるようです。でも、本当に原始の時代だったでしょうか。
彼らはアクセサリーをつけ、髪型を整えて身だしなみに気を遣っていました。死者は墓地で丁重に弔います。飼犬や、おそらく飼育中のイノシシの仔まで埋葬しています。一万年前も今も、人間の心情になんら変りはありません。自分の手で家を建て、道具を巧みに作り出して、大自然の中で最低限快適に生き抜く技をもっていました。物資を求めて、はるか遠方に赴く行動力はたいしたものです。
この節では、遺跡から出土した遺物などを通じて、縄文の人々の体温や息遣いを僅かでも想像していただこうと考えています。
広場のマツリ
マツリ中心の暮らし
自然の中に身を委ね生きた縄文人にとって、平穏な生活は何よりの幸いです。天の恵みを願い、天災が起こらぬよう祈るマツリは、縄文人の大切な行事だったと考えられます。また、喜びや悲しみを皆で分かち合うなど、日常の細々とした出来事のどれもがマツリにつながるように思えます。
縄文時代前期、中期のムラには中央に広場があります。多目的な公共の空間で、マツリもおそらくここで行われたことでしょう。集会場のような巨大な住居が作られたムラもありました。
後期、晩期では、水辺の近くにマツリの場があったことが確認されています。普段の生活では使わない特殊な土器や、土偶などのマツリに深く関わる品々が大量に積み上げられていました。生きる上で欠くことのできない水と食糧の安定をここで願ったのでしょう。東北地方では広場の墓域が発達した環状列石がマツリの中心になりました。
- 富山県不動堂遺跡(国指定史跡)
- 最初に発見された中期の大型住居跡です。長径17m、短径8mの長楕円形で、主柱穴14本、石囲炉4基があります。共同作業場やマツリの施設などに使用されていたようです。
- 栃木県宇都宮市根古谷台遺跡(国指定史跡)
- 前期黒浜式期の環状集落です。直径約60mの中央広場に多数の墓坑群があり、その周囲に竪穴住居跡、長方形大形住居跡、方形建物跡、掘立柱建物跡など各種の遺構が確認されています。
- 川里町赤城遺跡の祭祀遺物集中地点(県立埋蔵文化財センター提供)
- 赤城遺跡は、中央窪地を住居跡が環状に囲む後期〜晩期の集落です。窪地北側の若干高い平坦部、3.5m×2.5mの範囲から、多数の土偶、土版、石棒、石剣などの祭祀遺物が出土しました。
- 赤城遺跡晩期の土偶(県立埋蔵文化財センター提供)
- ミミズクに似た顔をもつ中空の土偶です。