ページの先頭

嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

5.縄文土器

「縄文」の由来

 1877(明治10)年、大学の教授として招かれたアメリカの人類学者、E・S・モースが来日しました。横浜港から汽車で新橋へ向かう途中、博士の目に飛び込んできたのが、切通しに現れた大森貝塚でした。博士は日を置かずに発掘を行います。日本で最初の学術的な発掘調査でした。
 調査の結果を詳細に記した報告書の中で、博士は出土した土器を「縄目文様の印された」と呼び、縄文土器の名付け親ともなったのでした。

約12000年前 草創期

長野県石小屋洞窟遺跡出土土器(國學院大學考古学資料館蔵)
長野県石小屋洞窟遺跡出土土器|写真 草創期、隆起線文土器。
滑川町打越遺跡出土土器
滑川町打越遺跡出土土器|写真 草創期、爪形文・押圧縄文土器。縄を1回ずつ押し当てて縄目文様をつけ、甕の縁の部分には爪跡を細かくびっしりと巡らせています。

約9000年前 早期

富士見市八ケ上遺跡出土土器(富士見市立資料館蔵)
富士見市八ケ上遺跡出土土器|写真 早期末、打越式。
金平遺跡出土土器
金平遺跡出土土器|写真 早期後半、貝殻条痕文土器。表裏全面を貝で引っ掻いています。

約6000年前 前期

蓮田市関山貝塚出土土器(県立博物館提供)
蓮田市関山貝塚出土土器|写真 前期前半、関山式。縄の撚り方と縄目の向きを変えることで山形、菱形、矢羽形の文様が生まれます。
蓮田市堂山公園遺跡出土土器(県立埋蔵文化財センター提供)
蓮田市堂山公園遺跡出土土器|写真 前期前半、黒浜式。
山根遺跡出土土器
山根遺跡出土土器|写真1 前期後半、諸磯a式。篠竹のような道具を用いた流麗な文様が特徴です。
山根遺跡出土土器
山根遺跡出土土器|写真2 前期後半、諸磯b式。

文様の変化

土器による時期区分

 そして、縄文土器が使われた期間が、縄文時代です。けれども、1万年以上にわたる長い時代です。土器はずっと同じままではありません。
 とくにその表面に施される文様は、年代の経過とともに、また地域によって、様々に変化しています。しかし同じ時期、同じ地方で作られる土器の文様は皆よく似ていて、厳密な規格のようなものすら感じられます。どうやら文様には、単なる装飾だけではなく、その時々で、何か別の意味も込められていたようなのです。文様の変化は、縄文人の意識や社会の変化を反映しています。
 そのため文様の違いを比べると、作られた年代の新旧がわかります。研究者はこの分析を詳細に行い、一時期、一地方の土器を「型式」という小さなグループに分けています。文字による記録がない時代では、この土器の「型式」が今でいえば「1980年代の埼玉県南西部」というような、時間の目盛りと地図の役割を果たすわけです。また、縄文時代の6つの「時期」の区分も、型式の分類が基準となっています。

約5000年前 中期

行司免遺跡出土土器
行司免遺跡出土土器|写真1 中期前半、勝坂式。
行司免遺跡出土土器
行司免遺跡出土土器|写真2 中期前半、阿玉台式。
行司免遺跡出土土器
行司免遺跡出土土器|写真3 勝坂式。太い粘土紐を貼りつけたダイナミックな文様が踊ります。
行司免遺跡出土土器
行司免遺跡出土土器|写真4 中期後半、加曽利E式。

約4000年前 後期

さいたま市寿能(じゅのう)遺跡出土土器(県立博物館提供)
さいたま市寿能遺跡出土土器|写真1 後期初頭、称名寺式。
鴻巣市中三谷(なかざんや)遺跡出土土器(県立埋蔵文化財センター提供)
鴻巣市中三谷遺跡出土土器|写真1 後期前半、堀之内式。現代でも通用する完成されたデザインは感動的です。
鴻巣市中三谷遺跡出土土器(県立埋蔵文化財センター提供)
鴻巣市中三谷遺跡出土土器|写真2 後期中頃、加曽利B式。

約3000年前 晩期

蓮田市雅楽谷遺跡出土土器(県立埋蔵文化財センター提供)
蓮田市雅楽谷遺跡出土土器|写真 晩期初頭、安行3a式。
さいたま市寿能遺跡出土土器(県立博物館提供)
さいたま市寿能遺跡出土土器|写真2 安行3a式。ボタンのような粘土の貼付けが、この型式では大流行しました。
さいたま市寿能遺跡出土土器(県立博物館提供)
さいたま市寿能遺跡出土土器|写真3 晩期前半、安行3c式。
北田遺跡出土土器
北田遺跡出土土器|写真 晩期終末、千網式。