嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.縄文時代後期
内陸部の環状集落消滅
縄文時代中期は、ドングリの森に育まれて、1000年以上も豊かに、平穏に続きました。しかしその繁栄にも、やがて翳(かげ)りが見えてきます。中期に続く縄文時代後期は、人々の暮しと社会全体の再改編が行われた時期となりました。
縄文人の生活を揺るがした最大の原因は、再び始まった気候の寒冷化でした。わずかな変化にも、森は敏感に反応しました。寒さに弱い草木が絶え、木の実は減り、動物たちも次第に去っていきます。森の衰えは、縄文人にとっても大きな打撃です。もはや1か所に大勢が集まっての共同生活では、食糧が賄えきれなくなりました。こうして大集落は消えていったのです。
- 関場(せきば)遺跡敷石住居跡(東秩父村教育委員会提供)
- 後期〜晩期の住居跡が6軒検出されました。一軒の住居跡には、炉の周囲に敷石がありました。
- 三ノ耕地遺跡住居跡(吉見町教育委員会提供)
- 後期中頃の加曽利B式期の方形の住居跡です。
- 三ノ耕地遺跡水場跡の遺物出土状況(吉見町教育委員会提供)
- 東松山市雉子山(きじやま)遺跡全景(東松山市教育委員会提供)
- 低地部の調査区で、後期の竪穴住居跡2軒、土坑2基、遺物包含層2ヶ所が検出されました。
敷石住居跡のなぞ
中期の人々が立ち去ったムラの跡やその周辺に、後期の縄文人が構えた一風変わった住居が発見されることがあります。床に石を敷き詰めた、敷石住居跡と呼ばれる遺構です。家の出入り口のところまで石を並べた、柄鏡のような形の住居がその典型的な例です。石は、扁平なものが選ばれています。家の中央には炉が組まれています。石を敷くことにどのような意味があったのか、なにか利点があるのかはよくわかっていません。
敷石住居の分布は、甲信地方や関東北西部の、しかも丘陵・山間地に限られています。
コラム4:丘陵の縄文人は何処へ?
行司免ムラの推移に見るように、比企丘陵では、縄文時代中期の終わりから急に遺跡が減少してしまいます。確認されている遺跡でも、住居の数は数軒どまり。使用されていた期間も短いものばかりです。人影もまばらな地域になってしまったのです。彼らの身に何が起こったのでしょう。森の恵みが失われ、食糧不足からムラ人が死に絶えてしまったのでしょうか。
そうではありません。縄文人は生き抜いていました。確かに、人口の急激な減少はあったようです。しかし、大部分の人々は、安定した食糧が得られる地を求め、丘陵から平野へ、さらには海岸沿いへと移動していったのでした。同様の動きは、長野県、山梨県などの中部山岳地域でとくに顕著に現れています。中期の一大文化圏だった甲信越地方は、後期になると一転して、見る影もなく寂れた地となりました。
埼玉県さいたま市、川口市周辺では、縄文時代後晩期の集落跡が数多く分布しています。また、千葉県千葉市、松戸市、市原市などでは、大集落がいくつも営まれていました。中期のムラと同じように、円形広場を住居が取り囲み、さらにその外側に食後廃棄した膨大な量の貝殻が厚く堆積しています。縄文人はたくましく生きていました。