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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.比企丘陵の晩期

比企地域の晩期遺跡分布図 比企地域の晩期遺跡分布図 晩期は約10遺跡が確認されています。後期後半から晩期は、河川に近い河岸段丘や自然堤防上に遺跡が分布しています。

東秩父村関場(せきば)遺跡住居跡(東秩父村教育委員会提供)
東秩父村関場遺跡住居跡|写真 槻川の上流部の山間に位置する遺跡です。後期〜晩期の住居跡が6軒検出されました。
関場遺跡出土土偶(東秩父村教育委員会提供)
関場遺跡出土土偶|写真 後期〜晩期の土偶が10数点出土しています。
関場遺跡出土石棒・石剣(東秩父村教育委員会提供)
関場遺跡出土石棒・石剣|写真 後期〜晩期の石棒・石剣とその未製品などが多数出土しています。この遺跡ではすぐそばを流れる槻川で採集できる結晶片岩を素材とした石器作りが行われていたようです。

水辺の暮らし

 比企丘陵の晩期の暮らしはどのようなものだったのでしょうか。遺跡は現在10カ所が確認されているにすぎません。住居跡の発見もごく僅かです。それまでの縄文時代に生活の舞台となっていた丘陵内部からは完全に姿を消してしまいました。
 代わって河川に面した低地などの水辺が生活の場所に選ばれました。少なくなってしまった獣の狩りと、アク抜きの必要なトチの実などの採集や僅かな穀物栽培などで細々と生活をつないでいたのが実状だったのではないかと考えられます。
 土偶や石棒などを多用したマツリが盛んに行われたのは、豊かな自然環境が再び回復することを切望した表われと見ることができます。それでも大きなムラが復活することはありませんでした。ほとんど空白といってもよいくらいに人々の痕跡は消えてしまったのでした。
 この地に再び人々がやって来てムラを営むようになるのは弥生時代の後期になってからのことで、数百年の年月を待たなければなりません。

吉見町三ノ耕地遺跡の水場遺構|写真 吉見町三ノ耕地遺跡の水場遺構(吉見町教育委員会提供) 三ノ耕地遺跡は、横見川を望む標高16mの自然堤防上にあります。後期・晩期の竪穴住居跡5軒、竪穴状遺構3軒の集落と、集落から南へ約40m離れた地点に、水場遺構1か所が検出されました。

三ノ耕地遺跡の水場遺構(吉見町教育委員会提供)
三ノ耕地遺跡の水場遺構|写真 縄文時代晩期の井戸施設です。南北約14m、東西約7mの範囲が1.8mほど掘り下げられていて、中央より北側にある直径約60cmの穴から水が湧きだしています。東側には水場へ下りる幅3mの通路がありました。
三ノ耕地遺跡出土土偶(吉見町教育委員会蔵)
三ノ耕地遺跡出土土偶|写真 中が空洞になっている晩期の土偶です。頭部と左右の腕、左足が欠損しています。
三ノ耕地遺跡出土岩版(吉見町教育委員会蔵)
三ノ耕地遺跡出土岩版|写真 軟質の岩石をお守り札のように加工したものです。この岩版は北関東系のデザインですが、土を焼いて作った土版も出土しています。
北田遺跡出土土器
北田遺跡出土土器|写真 町内最北端に位置する北田遺跡は、和田川の小流に面した丘陵の裾に立地します。晩期の土器、石器を含む土層の上に古墳が造られていました。
三ノ耕地遺跡出土イノシシ形土製品(吉見町教育委員会蔵)
三ノ耕地遺跡出土イノシシ形土製品|写真 水場遺構から出土したイノシシ形土製品です。10cm前後の小形品で、イノシシの幼獣に似ています。イノシシの増加と狩猟の成功を祈るマツリを行っていたようです。
川島・花見堂遺跡出土土器
川島・花見堂遺跡出土土器|写真 晩期終末の浮線網状文を特徴とする千網式土器です。花見堂遺跡は、市野川に面する台地端部の微高地上にあります。
古里・北田遺跡出土石器(原石、剥片、石鏃)
古里・北田遺跡出土石器|写真 原石から粗割りの素材剥片へ、そして形を整えながら完成品へと仕上げていく製作工程が分かります。すべてチャートです。