嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.海の幸と川の幸
奥東京湾と貝塚
森が育てた海の恵み
氷河期から一転して温暖化に向かった地球は、およそ6000年前ころに最も気温が高くなりました。海水面は現在よりも5メートルも高くて、当時の海岸線は現在よりもっと手前にありました。今は海のない埼玉県も、6000年前は川越市あたりで潮騒が聞こえたのでした。昨今は埋め立て造成が進んで、さらに狭くなってしまった東京湾ですが、かつて海だった範囲を奥東京湾と呼んでいます。
海辺では、魚や貝がたくさん採れるようになっていました。海の生物を育んだのも、実はドングリの森だったのです。当時深い入り江だった荒川流域では、縄文人たちの捨てた大量の貝殻が、貝塚となって残されています。中には魚や獣の骨も混じっています。海の幸と山の幸に恵まれて、縄文時代は、前期という繁栄のときを迎えます。
- 水子貝塚出土の貝類・魚骨・獣骨(富士見市立資料館蔵)
- 貝類は【6】ヤマトシジミを主体に【1】ハマグリ、【2】アサリ、【3】オオノガイ、【4】シオフキ、【5】アカニシ、【7】サルボウ、【8】マガキ、【9】オオタニシなどです。殻の成長線分析によると、ハマグリの採取時期は、春から夏が中心で時には秋・冬にも行っていたことがわかりました。右列は【10】アオザメ、【11】トビエイ、【12】タイ、【13】アシハラガニです。獣骨はシカ、イノシシ、ウサギ、タヌキなどが出土しています。他にタンチョウなど鳥骨も出土しています。
- 水子貝塚15号住居跡の貝層(富士見市立資料館提供)
- 貝塚は縄文人のゴミ捨て場です。15号住居跡の貝層は、全体に40〜70cm堆積し、その中から壊れた土器、石器と貝殻、魚骨、獣骨及び灰など食料の残り滓が重なって出土しました。
- 水子貝塚国指定史跡公園
- 富士見市にある前期黒浜式期の典型的な環状貝塚です。竪穴住居や地点貝塚などが屋外に復元展示されています。
縄文前期の繁栄
貝塚はまさに縄文時代前期を象徴する遺跡です。厚く堆積した大量の貝殻と、中に混じる様々な骨から、前期の人々が獣の狩猟よりもむしろ、海と川の漁を中心に生活していたことがわかります。湾内では、浜辺の貝類とスズキ、ボラなどの浅瀬の漁です。外洋に面した地域では、マグロやカツオの骨も発見されます。丸木舟を繰り出しての大がかりな漁の様子が浮かんできます。海から離れた内陸では、シジミなど淡水の貝とコイ、フナ、ナマズなどの川魚漁が行われ、とくにサケとマスは重要な食料でした。
縄文人の生活は、海の幸、山と川の幸によって、かつてない豊かなものとなりました。人口は急増しました。前期の土器は、彼らの心のゆとりがそのまま刻みつけられたような、繊細華麗な文様で埋めつくされています。
- 伊奈町伊奈氏屋敷跡遺跡出土丸木舟(県立埋蔵文化財センター提供)
- 後期〜晩期の丸木舟です。大きさは幅0.8m、長さ4.5mで、ケヤキの大木をくり抜いています。
- 現在の都幾川
- 縄文時代の貝塚からは、コイ、フナ、ウグイ、ナマズなど川で採れる多種類の魚の骨も出土しています。内陸部ではこうした魚が漁撈の対象となりました。
- 川の漁撈(ぎょろう)対象魚(金澤光氏提供)
- サケとマスは秋になると産卵のために群れとなって川を上ってきます。東京都前田耕地遺跡では、草創期の住居跡からサケの骨がまとまって出土しました。川の漁撈は海の漁撈に先駆けて始まっていたようです。
- 青田遺跡出土うけ状編物(新潟県教育委員会・埋蔵文化財センター提供)
- 晩期の低地集落の近くにある川跡から、丸木舟や櫂(かい)とともに出土しました。縦69cm、横37cmで、ササ類で作られています。川漁に使ううけに類似しています。
- 行司免遺跡出土石錘
- 魚を採る網の錘です。5cm前後の自然石に網の紐をしばる溝が彫られています。魚網の錘には、石錘と土錘があります。
- 新潟県信濃川のヤナ漁(新潟県川口町)
- 新潟県の信濃川では今も観光ヤナ漁が盛んに行われています。縄文時代のヤナは見つかっていませんが、岩手県萪内遺跡では魚を川から誘い込む「いり」状の遺構が検出されています。