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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.なぜ?時代は終わったのか。

亀ヶ岡式土器|写真
亀ヶ岡式土器
(青森県亀ヶ岡遺跡、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

森との別れ

縄文時代の終焉と弥生文化

 縄文時代は、森の成長とともに開花し、森に育まれた文化です。世界の歴史の中でも、1万年以上も続いた文化は、他に例を見ないものです。縄文人が海の向こうの異文化を知らなかったわけでも、また彼らが頑固だったわけでもありません。森の恵みがある限り、生活を変える必要がなかったのです。しかし・・・
 終わりは近づいていました。狩猟と漁撈、植物類の採集だけに頼る生活は、もはや限界に達していたのです。打開策が必要でした。
 朝鮮半島から、新天地を求める人々が大挙して九州に渡ってきたのはちょうどそのころです。

中空土偶(山梨県大泉村金生遺跡出土、山梨県立博物館提供)
中空土偶|写真 目や口の部分が開口した中空土偶です。弥生時代初期の土偶形容器に近い姿となっています。

銅剣|写真
銅剣(どうけん)
(吉野ヶ里遺跡出土、佐賀県教育委員会提供)

銅鐸|写真 銅鐸(どうたく)
(滋賀県野洲町小篠原出土、重要文化財、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

縄文的生き方の限界

 気候の温暖化によって発展してきた縄文文化は、縄文時代中期の終わりから後期にかけてを折り返し点とする寒冷化によって、徐々に衰退しました。ことに関東、甲信越地方での変化には激しいものがありました。過酷な氷河期をも生き抜いた人間が、なぜわずかな寒暖の差に対応できなかったのでしょう。問題の本質は、どうやら縄文人の縄文的生き方自体にあったようです。
 縄文人は、自分たちを取り巻く自然の恵みを、四季折々まんべんなく食材としていました。たとえば獣の狩猟では、なるべく成熟した雄を捕る、とか、繁殖期の狩はしない、などといった、乱獲の防止につながるルールもできあがっていました。自然界を構成する一員としての、謙虚な生き方です。
 最近の研究では、植物の栽培も行われていたことが次第に明らかになってきています。しかしそれも、森林を大規模に伐採したりするものではありません。特定の栽培食物だけに依存することもありませんでした。謙虚な姿勢は貫かれていて、それが結果的に1万年以上の文化を支え、また崩壊にも至ったのです。縄文時代後期、晩期の貝塚を見ると、1センチにも満たない種類の貝までも食べ尽くしていることがわかります。縄文的生き方に最後まですがり、懸命にもがくような姿がそこにはあります。