ページの先頭

嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

2.農耕社会への旅立ち

遮光器土偶|写真 遮光器(しゃこうき)土偶
(青森県亀ヶ岡遺跡出土、重要文化財、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

異文化との出会い

 縄文文化が行き詰まりに近づいたころ、九州北部に大勢の見知らぬ人々が現れました。情勢不安が続く朝鮮半島から避難し、新天地を求めて日本にたどり着いた大陸の農民たちです。家族総出で、家財一式を携えてきた彼らは、湿地で何やら不思議な行動を始めたのでした。
 縄文人たちが稲という植物を知らなかったわけではありません。大陸の農耕の情報もおそらく得ていたでしょう。日々悪化する生活環境を克服するため、畑作なども模索し始めていたかもしれません。下地はすでに整っていたと考えられます。実際、水田を目の当たりにしてからの縄文人の反応は機敏でした。稲作は九州から中国、近畿地方、さらに東日本へと急速に広まりました。農耕を基盤とする新たな文化、時代への転換が始まったのです。